最近、私は変だ。
自室の椅子に腰かけながら、順子はぼんやりと思案していた。
誠のことを、変に意識してしまう。
日常会話は、今まで通りにできていると思う。多分、普通のきょうだいって感じ。
でも、前みたいにしつこくちょっかいを出す気にはならない。
これは間違いなく、あのテーマパークの時からだ。
順子は自分の右手を見つめた。
誠の手を握ったときのことを思い出すと、頭がぼうっとする。
そもそも、誠が変わった。変わっていた。
体が成長していることは理解していたけど、それを実際に体感してみると、想像以上だった。
誠を愛する気持ちに変わりはない。
ただ、あの手を握っている時は怖かった。私の知らないものがそこにはあった。
どんな想像も、現実の肉体の前には敵わないことを思い知る。
私の可愛い誠の手の記憶は、いつの間にか骨ばった大きな手に握り潰されてしまった。
でも、あの時は怖かったけど、それはただ驚いただけ。
誠は私の弟なんだから、手を握ったくらいで変なことを考えるなんて、おかしいのは私の方だよね。
うん、大丈夫。何も問題ない。
たった二人のきょうだい。
私の可愛い弟。
私の大好きな誠。
だから、何も、気にすることはない。
順子は自分にそう言い聞かせた。
*
最近、姉ちゃんが変だ。
自室のベッドに横たわり、部屋の天井を見つめながら、誠は考えを巡らせていた。
ちょっと前までは、ウザいくらいに構ってきてたのに、最近はそういうことが減ってきた気がする。
多分、こないだ二人でテーマパークに行ったときくらいから?
そういえば、あの時は俺も変だったな。
あの時、姉ちゃんは「お仕置き」とかクソキモいことを言って、手を握ってきた。
でも、姉ちゃんは手を緩めた。そしたら俺は、つい握り返した。なんか、その手を離しちゃいけない気がして。
なんで、あんなことをしたんだろう。
多分、……ムカついたんだな。仕掛けてきた癖に逃げようとしたから。これは仕返しだ。
誠は自分の左手を見つめた。
でも、まあ。別に、嫌ではなかったかな。
姉ちゃん、思ったより手がちっちゃくて、柔らかくて、すげえ汗かいてて……。
ていうか、思い出したらムカついてきたな。
夜中にガサゴソしてうるさい、ってなんだよ。仕方ないだろ。男には男の事情があるんだよ。……ここの壁ってそんなに薄いのか?
それにしても、あんなにウザくてしょうがなかったはずなのに。構ってこなくなると、それはそれで変な感じ。
家の中が静かすぎる。
ごろんと寝返りを打つと、机の上のアクスタが見えた。エリコが二つ。ダブりだ。
でも、誠はエリコ推しだったので、むしろよかった。小柄な妹キャラに見えて、パワフルなダンスを踊るのがすごい。推せる。
図体ばかりデカい姉ちゃんとは大違いだ。
誠は順子の体を思い起こした。甘いものをよく食べてるからか、ケツがデカくて。ていうか、デカいのはそれだけじゃなくて、……これ以上考えるのはやめよう。
そういえば。誠はスマホを操作した。
今度マイカの単独ライブがあるんだよな。札幌。北海道か。
もし行くなら、地方遠征ってやつだな。それはもうガチファンだな。めっちゃ憧れる。
まあ、どう考えても、北海道なんてありえないよな。
いやでも、姉ちゃんなら……。
姉ちゃん、また、チケット代は私が出すよ、とか言ってくれないかな。
さすがに北海道は無理か。
でも、話のタネにはなるし。ちょっと、話題に出してみようかな。
*
「札幌? 行ったことないけど、飛行機で行くんじゃない?」
「だよなあ」
順子からの返事を聞いて、リビングのソファに腰掛けた誠はがっくりした様子を見せる。
「何、行ってみたいの? あそこはいろいろあるよねえ」
順子は北海道に行ったことがないが、友人のSNSで観光名所がたくさんあることを知っていた。
グルメもたくさん。ラーメン、海産物、ジンギスカン。うん、どれもよい。
しかし、順子の予想は大きく外れた。
「お姉ちゃん、知らない? 今度、マイカが札幌で単独やるの」
「ああ、そういえば、そうだね」
順子は適当に話を合わせた。
横浜のツアーライブが終わってから、順子はマイカの情報を入れなくなっていた。
最近は誠と普通に会話できるようになったので、わざわざマイカの話題に頼る必要がなかったのだ。
「ガチ勢は遠征とかするのかもしれないけどさ、そう簡単にできないよなあ」
誠は伸びをしながら言った。
「地方遠征とか、憧れるけど」
誠は天井を見上げた。
「行けるわけないよなあ」
誠はこちらを見て、ため息をついた。
おや、と順子は思う。
これは、もしかして、期待されてる?
一度は引こうと決めたはずの心のブレーキが、誠の期待に満ちた瞳を見た瞬間、音を立てて焼き切れた。
誠が、私を求めている。
順子は、脳の奥の一番柔らかい部分にどろりとした蜜を流し込まれたような感覚に陥った。
そうだった。
誠には、私が必要なんだ。
「じゃあ、行ってみる?」
気が付くと、口から言葉が出ていた。
誠は順子をまっすぐ見上げた。
「え、マジ?」
目を丸くしつつも、口角が上がるのを抑えられないでいる。
「マジで北海道に行くの?」
「うん、連れてってあげるよ」
順子はにんまりして答えた。
「すげえ! お姉ちゃん、すげえ……」
誠は両手を挙げてはしゃぎそうになった。しかし、この姉が、何の見返りもなく旅行に連れて行ってくれるだろうか。
思わず冷静になり、喜びと不安が入り交じった表情になる。
でも順子は、嬉しそうにした誠を見て、すっかり満足していた。
*
それにしても、北海道か。
リビングを去り、自分の部屋に戻った順子は、ベッドに倒れ込んでスマホを開いた。
言ってしまった手前、ちゃんと準備しておかないと。順子は段取りを冷静にイメージした。
ライブのチケットは、多分何とかなる。すっかり忘れてたけど、横浜のライブのあと、念のためにと思ってファンクラブに加入してあったんだ。先行予約で取れるかもしれない。
移動は当然、飛行機だよね。横浜から羽田空港まではバスでいいのか。羽田空港はめっちゃ広いらしい。迷わないように気を付けよう。羽田から新千歳まで飛んで、そこからさらに電車。
下手したら、合計で三、四時間くらいかかるな。北海道って、遠い。
当日は間に合うように、余裕を持って家を出ないと。そしてライブが夜の九時に終わって。
あれ。
その時間は、帰りの飛行機が、ない。
え?
なんだこれ、どうすればいいんだ。
ああ、そうか。順子はぱっと顔が明るくなる。
泊まるんだ。そりゃそうだよ。北海道で日帰りなんて無理だ。
え、泊まり?
順子は血の気が引いた。あんぐりと開いた口がふさがらない。
それは、さすがにヤバい。
誠と同じ部屋で、着替えて、シャワーを浴びて、寝て。
考えただけで体内が沸騰して、全身の毛穴から汗が流れだすのを感じる。
いやいや落ち着くんだ。別に同じ部屋にする必要はない。
二部屋用意すればいいだけだ。それなら安心だ。
でも、家族旅行で部屋を分けるのか? 宿泊費も高くなりそうだ。きょうだいだし、同じ部屋でも何もおかしくない。そうだよね?
ベッドは? もちろんツインでしょ。でも、宿泊費を節約するならダブル、むしろセミダブル。
ああ、それは……! 順子は手の震えが止まらなくなった。
もしベッドの中で、誠の熱くて骨ばった男の手と、私の手が、触れてしまったら。
それは、何かが、終わってしまうかもしれない。ツインに決まってる。
だけど、子どものころは、同じ布団で川の字で寝ていたはずだよね。
あれ?
自分でも、何を考えているのかわからない。
違う、私は誠を喜ばせたいだけ。きょうだいなんだから、一つのベッドで寝たって、節約のためって言えば誠だって納得するはず。
だから、何もおかしくない。
というか。
「そんなことより……!」
順子は自分の顔を、両手でぱんと叩いた。
「旅費をなんとかしないと……!」
往復の飛行機代に、宿泊費。もちろんライブのチケット代。二名分。
スマホの画面を叩くように操作し、オンラインバンキングの残高を開く。
やっぱり、全然足りない。でも、まだ時間はある。
シフト予定の合間を、深夜の物流倉庫やイベント設営のバイトで容赦なく埋めていく。
真っ黒になったカレンダーアプリの画面が輝いて見える。
順子は、それをうっとりと見つめた。
うふふ、これで、誠と北海道の夜を過ごせる。
これは全部、可愛い誠のためだから。
私のため、じゃない。
自室の椅子に腰かけながら、順子はぼんやりと思案していた。
誠のことを、変に意識してしまう。
日常会話は、今まで通りにできていると思う。多分、普通のきょうだいって感じ。
でも、前みたいにしつこくちょっかいを出す気にはならない。
これは間違いなく、あのテーマパークの時からだ。
順子は自分の右手を見つめた。
誠の手を握ったときのことを思い出すと、頭がぼうっとする。
そもそも、誠が変わった。変わっていた。
体が成長していることは理解していたけど、それを実際に体感してみると、想像以上だった。
誠を愛する気持ちに変わりはない。
ただ、あの手を握っている時は怖かった。私の知らないものがそこにはあった。
どんな想像も、現実の肉体の前には敵わないことを思い知る。
私の可愛い誠の手の記憶は、いつの間にか骨ばった大きな手に握り潰されてしまった。
でも、あの時は怖かったけど、それはただ驚いただけ。
誠は私の弟なんだから、手を握ったくらいで変なことを考えるなんて、おかしいのは私の方だよね。
うん、大丈夫。何も問題ない。
たった二人のきょうだい。
私の可愛い弟。
私の大好きな誠。
だから、何も、気にすることはない。
順子は自分にそう言い聞かせた。
*
最近、姉ちゃんが変だ。
自室のベッドに横たわり、部屋の天井を見つめながら、誠は考えを巡らせていた。
ちょっと前までは、ウザいくらいに構ってきてたのに、最近はそういうことが減ってきた気がする。
多分、こないだ二人でテーマパークに行ったときくらいから?
そういえば、あの時は俺も変だったな。
あの時、姉ちゃんは「お仕置き」とかクソキモいことを言って、手を握ってきた。
でも、姉ちゃんは手を緩めた。そしたら俺は、つい握り返した。なんか、その手を離しちゃいけない気がして。
なんで、あんなことをしたんだろう。
多分、……ムカついたんだな。仕掛けてきた癖に逃げようとしたから。これは仕返しだ。
誠は自分の左手を見つめた。
でも、まあ。別に、嫌ではなかったかな。
姉ちゃん、思ったより手がちっちゃくて、柔らかくて、すげえ汗かいてて……。
ていうか、思い出したらムカついてきたな。
夜中にガサゴソしてうるさい、ってなんだよ。仕方ないだろ。男には男の事情があるんだよ。……ここの壁ってそんなに薄いのか?
それにしても、あんなにウザくてしょうがなかったはずなのに。構ってこなくなると、それはそれで変な感じ。
家の中が静かすぎる。
ごろんと寝返りを打つと、机の上のアクスタが見えた。エリコが二つ。ダブりだ。
でも、誠はエリコ推しだったので、むしろよかった。小柄な妹キャラに見えて、パワフルなダンスを踊るのがすごい。推せる。
図体ばかりデカい姉ちゃんとは大違いだ。
誠は順子の体を思い起こした。甘いものをよく食べてるからか、ケツがデカくて。ていうか、デカいのはそれだけじゃなくて、……これ以上考えるのはやめよう。
そういえば。誠はスマホを操作した。
今度マイカの単独ライブがあるんだよな。札幌。北海道か。
もし行くなら、地方遠征ってやつだな。それはもうガチファンだな。めっちゃ憧れる。
まあ、どう考えても、北海道なんてありえないよな。
いやでも、姉ちゃんなら……。
姉ちゃん、また、チケット代は私が出すよ、とか言ってくれないかな。
さすがに北海道は無理か。
でも、話のタネにはなるし。ちょっと、話題に出してみようかな。
*
「札幌? 行ったことないけど、飛行機で行くんじゃない?」
「だよなあ」
順子からの返事を聞いて、リビングのソファに腰掛けた誠はがっくりした様子を見せる。
「何、行ってみたいの? あそこはいろいろあるよねえ」
順子は北海道に行ったことがないが、友人のSNSで観光名所がたくさんあることを知っていた。
グルメもたくさん。ラーメン、海産物、ジンギスカン。うん、どれもよい。
しかし、順子の予想は大きく外れた。
「お姉ちゃん、知らない? 今度、マイカが札幌で単独やるの」
「ああ、そういえば、そうだね」
順子は適当に話を合わせた。
横浜のツアーライブが終わってから、順子はマイカの情報を入れなくなっていた。
最近は誠と普通に会話できるようになったので、わざわざマイカの話題に頼る必要がなかったのだ。
「ガチ勢は遠征とかするのかもしれないけどさ、そう簡単にできないよなあ」
誠は伸びをしながら言った。
「地方遠征とか、憧れるけど」
誠は天井を見上げた。
「行けるわけないよなあ」
誠はこちらを見て、ため息をついた。
おや、と順子は思う。
これは、もしかして、期待されてる?
一度は引こうと決めたはずの心のブレーキが、誠の期待に満ちた瞳を見た瞬間、音を立てて焼き切れた。
誠が、私を求めている。
順子は、脳の奥の一番柔らかい部分にどろりとした蜜を流し込まれたような感覚に陥った。
そうだった。
誠には、私が必要なんだ。
「じゃあ、行ってみる?」
気が付くと、口から言葉が出ていた。
誠は順子をまっすぐ見上げた。
「え、マジ?」
目を丸くしつつも、口角が上がるのを抑えられないでいる。
「マジで北海道に行くの?」
「うん、連れてってあげるよ」
順子はにんまりして答えた。
「すげえ! お姉ちゃん、すげえ……」
誠は両手を挙げてはしゃぎそうになった。しかし、この姉が、何の見返りもなく旅行に連れて行ってくれるだろうか。
思わず冷静になり、喜びと不安が入り交じった表情になる。
でも順子は、嬉しそうにした誠を見て、すっかり満足していた。
*
それにしても、北海道か。
リビングを去り、自分の部屋に戻った順子は、ベッドに倒れ込んでスマホを開いた。
言ってしまった手前、ちゃんと準備しておかないと。順子は段取りを冷静にイメージした。
ライブのチケットは、多分何とかなる。すっかり忘れてたけど、横浜のライブのあと、念のためにと思ってファンクラブに加入してあったんだ。先行予約で取れるかもしれない。
移動は当然、飛行機だよね。横浜から羽田空港まではバスでいいのか。羽田空港はめっちゃ広いらしい。迷わないように気を付けよう。羽田から新千歳まで飛んで、そこからさらに電車。
下手したら、合計で三、四時間くらいかかるな。北海道って、遠い。
当日は間に合うように、余裕を持って家を出ないと。そしてライブが夜の九時に終わって。
あれ。
その時間は、帰りの飛行機が、ない。
え?
なんだこれ、どうすればいいんだ。
ああ、そうか。順子はぱっと顔が明るくなる。
泊まるんだ。そりゃそうだよ。北海道で日帰りなんて無理だ。
え、泊まり?
順子は血の気が引いた。あんぐりと開いた口がふさがらない。
それは、さすがにヤバい。
誠と同じ部屋で、着替えて、シャワーを浴びて、寝て。
考えただけで体内が沸騰して、全身の毛穴から汗が流れだすのを感じる。
いやいや落ち着くんだ。別に同じ部屋にする必要はない。
二部屋用意すればいいだけだ。それなら安心だ。
でも、家族旅行で部屋を分けるのか? 宿泊費も高くなりそうだ。きょうだいだし、同じ部屋でも何もおかしくない。そうだよね?
ベッドは? もちろんツインでしょ。でも、宿泊費を節約するならダブル、むしろセミダブル。
ああ、それは……! 順子は手の震えが止まらなくなった。
もしベッドの中で、誠の熱くて骨ばった男の手と、私の手が、触れてしまったら。
それは、何かが、終わってしまうかもしれない。ツインに決まってる。
だけど、子どものころは、同じ布団で川の字で寝ていたはずだよね。
あれ?
自分でも、何を考えているのかわからない。
違う、私は誠を喜ばせたいだけ。きょうだいなんだから、一つのベッドで寝たって、節約のためって言えば誠だって納得するはず。
だから、何もおかしくない。
というか。
「そんなことより……!」
順子は自分の顔を、両手でぱんと叩いた。
「旅費をなんとかしないと……!」
往復の飛行機代に、宿泊費。もちろんライブのチケット代。二名分。
スマホの画面を叩くように操作し、オンラインバンキングの残高を開く。
やっぱり、全然足りない。でも、まだ時間はある。
シフト予定の合間を、深夜の物流倉庫やイベント設営のバイトで容赦なく埋めていく。
真っ黒になったカレンダーアプリの画面が輝いて見える。
順子は、それをうっとりと見つめた。
うふふ、これで、誠と北海道の夜を過ごせる。
これは全部、可愛い誠のためだから。
私のため、じゃない。



