「テーマパークぅ?」
リビングのソファに寝転がった誠は、あからさまな不快感を声に出した。提案者である順子のことをギロリと睨みつけている。
「あんなのガキが行くところじゃん」
「うそ! 全然そんなことないよ。中高生もいっぱい行ってるよ?」
テレビでもしょっちゅう取り上げられている、国民的テーマパーク。何十年も前に営業を開始して以来、その人気が途絶えることはない。
順子は特にテーマパークのファンではなかったが、最近の友人のSNS投稿が心に火を着けた。
異国の街並みのような建物。可愛いキャラクターがあしらわれた料理。カチューシャを着けてはしゃぐ友人の姿。
はあ、いいなあ。
誠がマイカに憧れるように、順子にだって普通の若者としての憧れはあるのだ。
「なら友達と行きなよ」
「それがさあ、私の友達は彼氏と行くからいいとか言ってるんだよねえ」
嘘だ。順子は高校時代に友人と何度か行ったことがあるし、その気になれば学部の友人に声をかけることもできる。
でも、誠と行きたいのだ。誠とは幼いころに行ったきりだ。
そこで順子はいい考えを思いついた。
ライブのときの「貸し」は、ここで返してもらおう。
「……というわけで、拒否権はないから。また交通費とかは出してあげるよ」
「はあ……しょうがないな。行ってやるよ」
誠はとうとう諦めた。
まあ、テーマパークに遊びに行くくらいなら、大した要求ではないだろう。
「そういえば、お姉ちゃんと二人で行くの?」
「うん、そのつもり。ママたちにも来てもらう?」
「いやいや、それはもっと嫌だな……」
順子の目がぴくりと動いた。
「『もっと』って何。まるで私と行くのが嫌みたいじゃん」
「嫌に決まってるじゃん。なんで中学生にもなって、お姉ちゃんとテーマパークなんか行かなくちゃいけないの」
誠はスマホをいじりながら言った。まるで不満を全身から表明するかのような仕草だ。
まあ仕方がない。順子は肩をすくめて、優しい顔で受け入れた。これが所謂、思春期とか反抗期とかいうやつだ。
ちょっと恥ずかしがっているだけで、行けばきっと楽しんでくれるはず。
*
テーマパークへのお出かけ当日。
夏ながら、暑すぎない曇天。屋外の遊びにはぴったりの気候だ。
でも、日焼け止めは忘れずに。
「次はあっちのジェットコースターに行こうぜ!」
「ジェットコースターはさっきも乗ったでしょ……」
「あっちは別のやつだから!」
誠は完全にテーマパークに夢中になっていた。
あちこちのアトラクションを指して、あれに乗りたい、これに乗りたいと忙しい。
ふふ、可愛い。
順子は、幼いころの誠を思い出していた。
『はやくいくよ、おねえちゃん!』
『はいはい』
幼いころに家族でここに来たことを、誠は覚えていないかもしれない。
あの時の誠は、次はあっちに行こう、と順子の手を引っ張りながらはしゃいでいた。
そして今は。
「早く行くよ、お姉ちゃん!」
「はいはい」
はしゃぐ誠の背中を、順子は優しく見つめた。
中学生といっても、まだまだ子供だ。
そういえば、いつか誰かが言っていた。複数名でテーマパークに行くときは、事前の合意形成のプロセスが体験の満足度を左右すると。
まず、人の価値観はそれぞれ。「絶叫系が好きな人」と「のんびり派」が混ざると、対立を経たうえで、いずれかが我慢する構図になりがち。
そして、時間は有限である。意思決定の遅れは、そのままロスに繋がる。
「ねえ、あと三十分でパレードが始まるよ? 今からジェットコースターに一時間並ぶよりも、場所取りしてパレードを見ようよ」
「ええ? パレードなんてやだよ。アトラクションにたくさん乗ろうよ」
順子はまさに、その課題に直面していた。
でも、まあいいか。このくらいは我慢してあげよう。今は誠が楽しんでくれることの方が大事だ。行列に並んでいる間も、誠との会話を楽しもう。
*
「誠もカチューシャ買いなよ」
ジェットコースターの待ち行列に並びながら、順子は頭のカチューシャをゆらゆらと揺らした。バネが二本付いていて、その先にはさらに小さなキャラクターの人形が付いている。
このテーマパークでは、様々なデザインのカチューシャが販売されている。園内でそれを着けることはトレンドの一つだ。
「いらねーよ」
誠は、本当は「だせー」「ガキくさい」などの言葉で言い返すつもりだった。
ところが、行列の中にはカチューシャを着けた人が何人もいたため、それははばかられた。
「っていうか、女子って、こういうとこですぐはしゃぐよね。休みの日にわざわざ制服着てきたりしてさ」
誠は、少し先に見える女子高生の集団を見やりながら、小さな声で言った。
今日、あなたも充分にはしゃいでいたよ。口には出さずに、順子は呆れた。
「わかってないな、学校の制服が着れるのなんて、中高生のうちだけなんだから。その一瞬が大事なんだよ」
「お姉ちゃんなら着てもバレないでしょ。去年まで高校生だったんだから」
「私が制服なんか着たら、逮捕されちゃうよ」
順子は冗談めかして言った。でも、半分は本気だ。
誠は本当にわかっていない。大学生と高校生では、天と地ほどの差があるのだ。まるで別の生き物のように。
大学生は成人年齢を超えているから、周囲からも大人として扱われる。バイトの選択肢も増えて、お金も稼ぎやすくなる。このテーマパークのチケットだって、順子は大人料金だ。
「男子って、制服を着て出かけたがらないよね」
「だって意味わかんないし。あんなの、俺は子供ですってアピールしているようなもんじゃん。俺は早く大人になりたいよ」
誠は口をとがらせて言った。
そんな誠の考えとは裏腹に、まだ子供のままでいいよ、と順子は思う。
人は、嫌でも大人になってしまうから。今の一瞬が大事なんだよ。
それにしても、気が付けばすっかり仲の良いきょうだいになったな。
お出かけは嫌がられるものの、こうして他愛のない会話を楽しむことができる。以前までは考えられなかったことだ。
順子は感慨深い思いでいっぱいになった。
*
たっぷりと遊んでいると、帰りのバスの時間が徐々に近づいてきた。
直行バスの指定席を予約してあるので、遅れるわけにはいかない。
せっかくだから、お土産でも買って帰ろうか、と話していた時だった。
「相原!」
突然苗字を呼ばれたため、二人そろって振り返った。
そこには、中学生らしき男子が四名。そのうちの一人、丸刈りの男の子がこちらに手を振っていた。
「コバ! なんで!」
誠は、その丸刈りが誰なのかに気が付いた。どうやら友人のようだ。
コバはこちらにすたすたと近づいてくる。
「いやぁ、空手道場の連中と遊びに来てたら、たまたま見かけてさ。ていうか」
コバは誠の肩をバシバシと叩いた。
「彼女がいたなんて聞いてないんですけど! テメー、抜け駆けかよ!」
「ちっげーよ‼ 姉貴だよ‼」
誠が吠えると、コバは目をしばしばさせて順子を見た。
「あ、お姉さんなんですね。相原くんのクラスメイトの小林です。いつもお世話になっています」
「ああ、はい、どうも……」
調子のよい様子から一転、突然かしこまった態度のコバに対して、順子は面食らってしまった。
「でもいいじゃん相原。うちらなんて見ろよ。女子に声かけたのに誰も来なかったんだぜ」
「よくねえよ。姉貴がうるせえから仕方なく付き合ってやってんの」
「そっか、まあとにかく、突然声かけて悪かった。じゃあまた、学校でな」
そう言って、コバは男子軍団と去っていった。
突然の第三者の登場に、二人は突風に吹かれたような気持ちになっていた。
「……友達?」
「あー、うん」
誠は歯切れが悪い。思春期の微妙な感覚によって、家族の場に友達がいることも気まずいし、友達の場に家族がいることも気まずい。
まあコバなら、と誠は状況を冷静に判断した。姉と一緒だったからといって馬鹿にすることはないから大丈夫だろう。
あいつは男子中学生のくせに、未だに母親のことをママと呼ぶやつだ。
「面白い子だね」
順子は笑った。しかし、突然ハッと目を見開いた。
「待った待った、『姉貴』って何」
「いや別に」
「『お姉ちゃん』でしょ」
「他の人の前ではいいって言ったじゃん」
「親の前では、と言いました。友達は対象外」
「後付けルールはやめろよ」
誠は腕を組み、睨みをきかせた。
しかし順子は止まらない。
「しかも『うるせえから仕方なく』って何? めっちゃ楽しそうにしてたじゃん」
「お姉ちゃんじゃなかったらもっと楽しかったよ」
「はあ? 何それ? 一緒に来てくれる彼女もいないくせに」
「その言葉はそっくりそのまま返すわ。まあお姉ちゃんみたいなデブには彼氏なんてできないだろうけど」
「誰が、デブだ!」
それは順子の逆鱗に触れた。口元だけを笑わせたまま、目が据わった冷たい笑顔でまくしたてる。
「まったく、あんたのせいでパレードは見れなかったし、せっかくレジャーシートも持ってきたのに、アトラクションに並んでばっかりで、足が疲れたよ」
遊び疲れからか、順子は冷静さを欠いていた。静かな怒りは徐々にエスカレートしていく。
「だいたい、最近夜中にガサゴソしてうるさいし。牛乳をちょびっとだけ残した状態で冷蔵庫に戻すし。何なの!」
関係ないことまで挙げ連ねて怒鳴られ、誠はたじろいだ。
なんだなんだ、と周りの人がじろじろと見ている。恥ずかしい。逃げたい。
周りの様子をキョロキョロと伺う誠を見て、順子は冷静さを取り戻してきた。
ヤバい。公共の場で大声を出してしまった。恥ずかしい。逃げたい。
「……帰ろっか」
順子は誠がそばに来るのを待ってから、ゆっくりと並んで歩き出した。
すると、順子の中でいたずら心がムクムクと湧き上がってきた。
「誠、さっきの許してあげるけど、一つお仕置きね」
そういうと、順子は誠の手を握った。
「何すんだ、キモい!」
誠は慌てて手を振ったが、順子の手はスッポンのように離れない。
「昔はねえ、誠の方からこうやって手を握ってくれたんだよ? お姉ちゃん、お姉ちゃんって言ってさ」
「それ、どうせまた幼稚園のころの話だろ」
誠は呆れたが、これ以上何を言ってもしょうがない、と諦めた。
二人は手をつないだまま、テーマパークの出口へ向かう。
うふふ、懐かしいな。
自分の右手に誠の左手を感じながら、順子は過去の思い出に浸っていた。
誠の手、こうやって握るのは何年ぶりかな。
誠の手、あったかいな。
誠の手、今は私よりもちょっと大きいんだな。
誠の手、思ったよりも骨ばってるな。
誠の手……。
順子は猛烈な違和感に襲われた。
幼いころの、あのマシュマロみたいに柔らかかった手じゃない。
指はすらりと伸び、関節はごつごつと硬い。
これは、男の手だ。
手のひらが汗ばんでくる。その湿り気が体に伝わり、背中にまで汗をかき始めた。
なぜだろう。混乱しながら、順子はとてもマズい状況にいると感じた。
身を守るために、思わず右手の力を緩めた。
ふう、これで大丈夫だ。順子は胸をなでおろした。
ところが、誠の手は順子を逃がさなかった。
緩めた右手は、誠にぎゅっと握られてしまった。
順子は、心臓が口から飛び出しそうなほどに驚いた。息ができない。
誠の方を見やると、彼は顔を赤らめながら、まっすぐ前を見つめていた。
シャツの袖から伸びた腕から、血の通った熱い肉体の存在を感じる。
「お姉ちゃん」
手が熱い。しっかりとした握力で握られてしまい、逃げ出せそうにない。
「お仕置きなんでしょ」
誠は前を向いたまま、真剣な顔で言い放った。
「ちゃんとしなよ」
順子は状況が飲み込めない。
これはなんだ? どういうことなんだ?
順子は自分の心臓の音が聞こえた。体内で高速のビートが刻まれる。
もう、今にも逃げ出したい気持ちだ。歯茎がもぞもぞと痒い。
おかしい。
自らそうしたくて、手をつないだはずなのに。
二人は黙りこくったまま、帰りのバスへ向かう。
目の前に見えるバス停が、とてつもなく遠い。
バスに乗り込むときに、ようやく手が離れた。
*
順子はバスの車窓からの景色を眺めていた。
しかし、何も頭に入ってこない。
右隣の席には、イヤホンを着けて目を閉じた誠が座っている。
行きのバスでは、誠の体は小さくて、ただの生意気な子供にしか見えなかった。
なのに今は、誠の肩幅の広さや、規則正しい静かな呼吸の音が、狭い座席の中で嫌というほど存在感を主張してくる。
触れそうな距離にある彼の体温が、皮膚を貫いていくような錯覚を覚えた。
なんだか、頬が熱い気がする。
日焼け止め、塗り忘れたかな……。
リビングのソファに寝転がった誠は、あからさまな不快感を声に出した。提案者である順子のことをギロリと睨みつけている。
「あんなのガキが行くところじゃん」
「うそ! 全然そんなことないよ。中高生もいっぱい行ってるよ?」
テレビでもしょっちゅう取り上げられている、国民的テーマパーク。何十年も前に営業を開始して以来、その人気が途絶えることはない。
順子は特にテーマパークのファンではなかったが、最近の友人のSNS投稿が心に火を着けた。
異国の街並みのような建物。可愛いキャラクターがあしらわれた料理。カチューシャを着けてはしゃぐ友人の姿。
はあ、いいなあ。
誠がマイカに憧れるように、順子にだって普通の若者としての憧れはあるのだ。
「なら友達と行きなよ」
「それがさあ、私の友達は彼氏と行くからいいとか言ってるんだよねえ」
嘘だ。順子は高校時代に友人と何度か行ったことがあるし、その気になれば学部の友人に声をかけることもできる。
でも、誠と行きたいのだ。誠とは幼いころに行ったきりだ。
そこで順子はいい考えを思いついた。
ライブのときの「貸し」は、ここで返してもらおう。
「……というわけで、拒否権はないから。また交通費とかは出してあげるよ」
「はあ……しょうがないな。行ってやるよ」
誠はとうとう諦めた。
まあ、テーマパークに遊びに行くくらいなら、大した要求ではないだろう。
「そういえば、お姉ちゃんと二人で行くの?」
「うん、そのつもり。ママたちにも来てもらう?」
「いやいや、それはもっと嫌だな……」
順子の目がぴくりと動いた。
「『もっと』って何。まるで私と行くのが嫌みたいじゃん」
「嫌に決まってるじゃん。なんで中学生にもなって、お姉ちゃんとテーマパークなんか行かなくちゃいけないの」
誠はスマホをいじりながら言った。まるで不満を全身から表明するかのような仕草だ。
まあ仕方がない。順子は肩をすくめて、優しい顔で受け入れた。これが所謂、思春期とか反抗期とかいうやつだ。
ちょっと恥ずかしがっているだけで、行けばきっと楽しんでくれるはず。
*
テーマパークへのお出かけ当日。
夏ながら、暑すぎない曇天。屋外の遊びにはぴったりの気候だ。
でも、日焼け止めは忘れずに。
「次はあっちのジェットコースターに行こうぜ!」
「ジェットコースターはさっきも乗ったでしょ……」
「あっちは別のやつだから!」
誠は完全にテーマパークに夢中になっていた。
あちこちのアトラクションを指して、あれに乗りたい、これに乗りたいと忙しい。
ふふ、可愛い。
順子は、幼いころの誠を思い出していた。
『はやくいくよ、おねえちゃん!』
『はいはい』
幼いころに家族でここに来たことを、誠は覚えていないかもしれない。
あの時の誠は、次はあっちに行こう、と順子の手を引っ張りながらはしゃいでいた。
そして今は。
「早く行くよ、お姉ちゃん!」
「はいはい」
はしゃぐ誠の背中を、順子は優しく見つめた。
中学生といっても、まだまだ子供だ。
そういえば、いつか誰かが言っていた。複数名でテーマパークに行くときは、事前の合意形成のプロセスが体験の満足度を左右すると。
まず、人の価値観はそれぞれ。「絶叫系が好きな人」と「のんびり派」が混ざると、対立を経たうえで、いずれかが我慢する構図になりがち。
そして、時間は有限である。意思決定の遅れは、そのままロスに繋がる。
「ねえ、あと三十分でパレードが始まるよ? 今からジェットコースターに一時間並ぶよりも、場所取りしてパレードを見ようよ」
「ええ? パレードなんてやだよ。アトラクションにたくさん乗ろうよ」
順子はまさに、その課題に直面していた。
でも、まあいいか。このくらいは我慢してあげよう。今は誠が楽しんでくれることの方が大事だ。行列に並んでいる間も、誠との会話を楽しもう。
*
「誠もカチューシャ買いなよ」
ジェットコースターの待ち行列に並びながら、順子は頭のカチューシャをゆらゆらと揺らした。バネが二本付いていて、その先にはさらに小さなキャラクターの人形が付いている。
このテーマパークでは、様々なデザインのカチューシャが販売されている。園内でそれを着けることはトレンドの一つだ。
「いらねーよ」
誠は、本当は「だせー」「ガキくさい」などの言葉で言い返すつもりだった。
ところが、行列の中にはカチューシャを着けた人が何人もいたため、それははばかられた。
「っていうか、女子って、こういうとこですぐはしゃぐよね。休みの日にわざわざ制服着てきたりしてさ」
誠は、少し先に見える女子高生の集団を見やりながら、小さな声で言った。
今日、あなたも充分にはしゃいでいたよ。口には出さずに、順子は呆れた。
「わかってないな、学校の制服が着れるのなんて、中高生のうちだけなんだから。その一瞬が大事なんだよ」
「お姉ちゃんなら着てもバレないでしょ。去年まで高校生だったんだから」
「私が制服なんか着たら、逮捕されちゃうよ」
順子は冗談めかして言った。でも、半分は本気だ。
誠は本当にわかっていない。大学生と高校生では、天と地ほどの差があるのだ。まるで別の生き物のように。
大学生は成人年齢を超えているから、周囲からも大人として扱われる。バイトの選択肢も増えて、お金も稼ぎやすくなる。このテーマパークのチケットだって、順子は大人料金だ。
「男子って、制服を着て出かけたがらないよね」
「だって意味わかんないし。あんなの、俺は子供ですってアピールしているようなもんじゃん。俺は早く大人になりたいよ」
誠は口をとがらせて言った。
そんな誠の考えとは裏腹に、まだ子供のままでいいよ、と順子は思う。
人は、嫌でも大人になってしまうから。今の一瞬が大事なんだよ。
それにしても、気が付けばすっかり仲の良いきょうだいになったな。
お出かけは嫌がられるものの、こうして他愛のない会話を楽しむことができる。以前までは考えられなかったことだ。
順子は感慨深い思いでいっぱいになった。
*
たっぷりと遊んでいると、帰りのバスの時間が徐々に近づいてきた。
直行バスの指定席を予約してあるので、遅れるわけにはいかない。
せっかくだから、お土産でも買って帰ろうか、と話していた時だった。
「相原!」
突然苗字を呼ばれたため、二人そろって振り返った。
そこには、中学生らしき男子が四名。そのうちの一人、丸刈りの男の子がこちらに手を振っていた。
「コバ! なんで!」
誠は、その丸刈りが誰なのかに気が付いた。どうやら友人のようだ。
コバはこちらにすたすたと近づいてくる。
「いやぁ、空手道場の連中と遊びに来てたら、たまたま見かけてさ。ていうか」
コバは誠の肩をバシバシと叩いた。
「彼女がいたなんて聞いてないんですけど! テメー、抜け駆けかよ!」
「ちっげーよ‼ 姉貴だよ‼」
誠が吠えると、コバは目をしばしばさせて順子を見た。
「あ、お姉さんなんですね。相原くんのクラスメイトの小林です。いつもお世話になっています」
「ああ、はい、どうも……」
調子のよい様子から一転、突然かしこまった態度のコバに対して、順子は面食らってしまった。
「でもいいじゃん相原。うちらなんて見ろよ。女子に声かけたのに誰も来なかったんだぜ」
「よくねえよ。姉貴がうるせえから仕方なく付き合ってやってんの」
「そっか、まあとにかく、突然声かけて悪かった。じゃあまた、学校でな」
そう言って、コバは男子軍団と去っていった。
突然の第三者の登場に、二人は突風に吹かれたような気持ちになっていた。
「……友達?」
「あー、うん」
誠は歯切れが悪い。思春期の微妙な感覚によって、家族の場に友達がいることも気まずいし、友達の場に家族がいることも気まずい。
まあコバなら、と誠は状況を冷静に判断した。姉と一緒だったからといって馬鹿にすることはないから大丈夫だろう。
あいつは男子中学生のくせに、未だに母親のことをママと呼ぶやつだ。
「面白い子だね」
順子は笑った。しかし、突然ハッと目を見開いた。
「待った待った、『姉貴』って何」
「いや別に」
「『お姉ちゃん』でしょ」
「他の人の前ではいいって言ったじゃん」
「親の前では、と言いました。友達は対象外」
「後付けルールはやめろよ」
誠は腕を組み、睨みをきかせた。
しかし順子は止まらない。
「しかも『うるせえから仕方なく』って何? めっちゃ楽しそうにしてたじゃん」
「お姉ちゃんじゃなかったらもっと楽しかったよ」
「はあ? 何それ? 一緒に来てくれる彼女もいないくせに」
「その言葉はそっくりそのまま返すわ。まあお姉ちゃんみたいなデブには彼氏なんてできないだろうけど」
「誰が、デブだ!」
それは順子の逆鱗に触れた。口元だけを笑わせたまま、目が据わった冷たい笑顔でまくしたてる。
「まったく、あんたのせいでパレードは見れなかったし、せっかくレジャーシートも持ってきたのに、アトラクションに並んでばっかりで、足が疲れたよ」
遊び疲れからか、順子は冷静さを欠いていた。静かな怒りは徐々にエスカレートしていく。
「だいたい、最近夜中にガサゴソしてうるさいし。牛乳をちょびっとだけ残した状態で冷蔵庫に戻すし。何なの!」
関係ないことまで挙げ連ねて怒鳴られ、誠はたじろいだ。
なんだなんだ、と周りの人がじろじろと見ている。恥ずかしい。逃げたい。
周りの様子をキョロキョロと伺う誠を見て、順子は冷静さを取り戻してきた。
ヤバい。公共の場で大声を出してしまった。恥ずかしい。逃げたい。
「……帰ろっか」
順子は誠がそばに来るのを待ってから、ゆっくりと並んで歩き出した。
すると、順子の中でいたずら心がムクムクと湧き上がってきた。
「誠、さっきの許してあげるけど、一つお仕置きね」
そういうと、順子は誠の手を握った。
「何すんだ、キモい!」
誠は慌てて手を振ったが、順子の手はスッポンのように離れない。
「昔はねえ、誠の方からこうやって手を握ってくれたんだよ? お姉ちゃん、お姉ちゃんって言ってさ」
「それ、どうせまた幼稚園のころの話だろ」
誠は呆れたが、これ以上何を言ってもしょうがない、と諦めた。
二人は手をつないだまま、テーマパークの出口へ向かう。
うふふ、懐かしいな。
自分の右手に誠の左手を感じながら、順子は過去の思い出に浸っていた。
誠の手、こうやって握るのは何年ぶりかな。
誠の手、あったかいな。
誠の手、今は私よりもちょっと大きいんだな。
誠の手、思ったよりも骨ばってるな。
誠の手……。
順子は猛烈な違和感に襲われた。
幼いころの、あのマシュマロみたいに柔らかかった手じゃない。
指はすらりと伸び、関節はごつごつと硬い。
これは、男の手だ。
手のひらが汗ばんでくる。その湿り気が体に伝わり、背中にまで汗をかき始めた。
なぜだろう。混乱しながら、順子はとてもマズい状況にいると感じた。
身を守るために、思わず右手の力を緩めた。
ふう、これで大丈夫だ。順子は胸をなでおろした。
ところが、誠の手は順子を逃がさなかった。
緩めた右手は、誠にぎゅっと握られてしまった。
順子は、心臓が口から飛び出しそうなほどに驚いた。息ができない。
誠の方を見やると、彼は顔を赤らめながら、まっすぐ前を見つめていた。
シャツの袖から伸びた腕から、血の通った熱い肉体の存在を感じる。
「お姉ちゃん」
手が熱い。しっかりとした握力で握られてしまい、逃げ出せそうにない。
「お仕置きなんでしょ」
誠は前を向いたまま、真剣な顔で言い放った。
「ちゃんとしなよ」
順子は状況が飲み込めない。
これはなんだ? どういうことなんだ?
順子は自分の心臓の音が聞こえた。体内で高速のビートが刻まれる。
もう、今にも逃げ出したい気持ちだ。歯茎がもぞもぞと痒い。
おかしい。
自らそうしたくて、手をつないだはずなのに。
二人は黙りこくったまま、帰りのバスへ向かう。
目の前に見えるバス停が、とてつもなく遠い。
バスに乗り込むときに、ようやく手が離れた。
*
順子はバスの車窓からの景色を眺めていた。
しかし、何も頭に入ってこない。
右隣の席には、イヤホンを着けて目を閉じた誠が座っている。
行きのバスでは、誠の体は小さくて、ただの生意気な子供にしか見えなかった。
なのに今は、誠の肩幅の広さや、規則正しい静かな呼吸の音が、狭い座席の中で嫌というほど存在感を主張してくる。
触れそうな距離にある彼の体温が、皮膚を貫いていくような錯覚を覚えた。
なんだか、頬が熱い気がする。
日焼け止め、塗り忘れたかな……。



