相原順子は、大学に入学した直後は期待に胸を膨らませていた。
大学生はやることがたくさん。勉学に励んだり、サークル活動を楽しんだり、恋人を作ったり。
でもまさか自分が、サークルや恋なんかじゃなくて、バイトに明け暮れることになるなんて当時は思いもしなかった。
週四のコンビニバイトの他に、スポットで深夜の倉庫仕分けや配送などのおよそ女子大生らしくないバイトをやっている。
別に、家計が苦しいわけではない。
でも、順子にはお金が必要だった。お金はいくらあっても困らない。
それが、誠のためでもあり、自分のためでもあるのだ。
順子はバイトの帰りに、駅前のケーキ屋でシュークリームを買うことにした。カスタードがたっぷり詰まった、人気の商品だ。親は甘い物を食べないから、自分と誠の分だけ。
誠、喜んでくれるかな。シュークリームと、これ。順子はスマホの画面を静かに眺める。
そういえば、あの日もシュークリームを買っていた気がする。
順子はシュークリームの支払いをしながら、二人の会話が久々に弾んだ時のことを思い出した。
*
順子の家は四人家族。父と母と、弟の誠と暮らしている。
順子は大学一年生。誠は中学二年生だ。
二人は仲の良いきょうだいだった。幼い誠は順子を慕い、順子は誠を大層可愛がった。
なお、「だった」と表現したものの、順子にしてみれば今でも仲が悪いわけではない。誠を引き続き可愛がっている。
一方の誠はろくに口を利かない。思春期や反抗期というやつで、家族の誰に対しても素っ気ない態度をとっている。
誠が初めて「ブス」と吐き捨てた日のことは、今でも鮮明に覚えている。子どもの悪口だと、あの時は笑って流したけど、胸の奥がずしりと重くなった。
なお、「ブス」よりも「デブ」の方がダメージが大きかった。順子はそこまで太っているわけではないが、他人に積極的に見せたい体型でもない。
そんな誠のことを苦々しく思っていたものの、それが中学に入ってから無視に変わってしまうと、あれはまだマシな方だったな、と気が付いた。
誠は自室に籠もっていることもあるが、Wi-Fiの電波が弱いという理由で、よくリビングで過ごした。
ところが、リビングではスマホを眺めているばかりで、家族との会話は少ない。
順子が話しかけても、短い返事があるだけで、無視されることも多い。
無視されればされるほど、順子はしつこくなっていった。しかしそれは明らかに逆効果で、誠は姉の干渉を過剰なものだと嫌っていた。
順子は、自身のことを振り返る。一足先に思春期を通過してきた身だ。
確かに、中学生くらいの頃は、親のことが疎ましかった。
親の年賀状に使われる家族写真でも、当時の私は澄ました顔をしていた。
しかし、高校生ともなると、いつの間にか憑き物が取れたように笑顔で写真に写っている。
つまり、誠のそれも、今だけの一時的なものなのだ。
理解はしているんだけれども。
少しでも早く、どうにかならないものか。
そんなある日のことだった。
大学から帰ってきた順子は、ソファに寝転がる誠を見下ろしていた。細長い足を投げ出して、誠はスマホで音楽を流している。
「シュークリーム買ってきたんだけど、食べる?」
「……」
返事はない。誠は相変わらずだ。せっかく買ってきたシュークリームにも手を出そうとしない。
でも、誠にはお姉ちゃんが必要なのだ。だから諦めるわけにはいかない。順子は自分にそう言い聞かせる。
最近の誠は、リビングでよく音楽を聞いている。それは大抵、女性ボーカルのダンスミュージックだ。
会話のきっかけを得るために、誠のスマホから流れている音楽を自身のスマホで検索してみると、すぐに結果が表示された。
それは、マイカの『Biscuit Machine』だそうだ。
マイカ。それを順子は少しだけ知っていた。正式な表記はMICA。K-POP系のダンスボーカルグループ。最近人気が急上昇中のガールズグループだ。
ネットでマイカのことを検索してみる。
リーダーで高身長のナツ、ダンススキルが特に高いと評判のユラ、キュートな妹系のエリコの三人で構成されている。
みんな当然のようにへそ出しで、ウエストが嘘みたいに細い。羨ましさから、順子は静かに奥歯を噛んだ。
いくつかのサイトを眺めて、マイカに関する情報を一気にインプットする。
よし、これで準備は万端だ。
「ねえそれ、マイカの『Biscuit Machine』でしょ」
順子は誠に話しかける。
すると、誠は目を丸くして順子の方を向いた。それは順子としては想像以上の反応だった。
「よく知ってるね、カップリング曲なのに」
よし、と順子は心の中でガッツポーズを決めた。っていうか、カップリング曲だったのか。そこまで確認していなかった。
しかし油断はできない。ここで調子に乗ると、せっかくつかんだ糸口が、一瞬で水の泡だ。
順子は、心理学の教授の雑談を必死に思い出した。下品そうな教授が、恋人を手のひらで転がすためのテクニックだよ、と言っていた話。
誠が気持ちよくなるように、慎重に言葉を選ぶ。自分の手のひらから逃さないように。
第一のテクニック。とりあえず褒める。
「誠もよく知ってるじゃん。すごいね。マイカ、好きなんだ?」
「まあね」
誠は少しとぼけた顔をした。まんざらでもなさそうだ。
第二のテクニック。答えやすい質問を与えて、相手に自由に喋らせる。
「好きな曲とかはあるの?」
「そうだな……」
誠は体を起こし、考え始めた。
「ド定番だけど、『Genie』かな。後は『White mist』とか『Gladiator』も好きだよ」
誠は真剣な顔で次々と曲名を口にした。マイカのことを語りたくてしょうがないといった様子だ。
へえ、そんなにマイカが好きだったんだ。誠のこと、よく知らなかったんだな、と順子は小さく反省した。
「うん、わかる。『Genie』めっちゃかっこいいよね」
「だよな。あのダイナミックな振り付けはマイカの魅力が出てて超好き」
そして第三のテクニックは、相手に共感すること。
『Genie』は代表曲なので、辛うじて順子も知っていた。とはいえ曲のサビがわかる程度で、振り付けなどはさっぱりわからない。
それでも充分だった。自分の推しを共有できる相手を見つけた誠は、明らかにご機嫌の様子だ。
「だけど、姉ちゃんもマイカが好きだったなんて、意外だな」
「うん、大学の友達から教えてもらってね」
嘘だ。本当はたった今スマホから教えてもらったばかりだ。
でも、誠との会話のきっかけをくれたと考えたら、マイカに対して途端に好意を感じるようになってきた。
「シュークリーム、食べる?」
「食べる」
誠は急に素直になった。マイカの力はすごい。
これだけでも充分満足だった。しかし、付け焼き刃の知識を武器にして、順子はさらに会話を重ねる。
「そういえば、今度横浜でライブがあるの、知ってる?」
「うん」
「ライブとかは行かないの?」
「そりゃ興味はあるけど、そういうの行ったことないし、よくわかんないよ」
誠はシュークリームを頬張りながら、不満げに答えた。
無理もない、まだ中学生なのだ。もしかしたら、未成年だけでは参加すらできないかもしれない。
そこで、順子はいいことを思いついた。
「じゃあ、私と一緒に行ってみる? チケット代は私が持つよ」
順子は勝ち誇った顔をした。
ライブなんて最高じゃないか。誠と時間や空間を共有できる、最高のイベント。
ところが、誠は呆れていた。
「今からチケットなんて取れるわけないじゃん。完売だよ、完売」
スマホで検索すると、確かにチケットは売り切れだ。
しかし、中学生の誠はまだわかっていない、と順子は思った。この世の中は、目に見えるものだけが全てではないのだ。
だから、お姉ちゃんが連れて行ってあげないと。
お金も、知識も、年齢も。誠に足りないもの全部、私が持ってる。
*
数日後、順子は誠の部屋へ行った。
「誠、いい?」
あの日以降、誠の順子に対する態度が軟化した。
親がいる前ではほとんど変わらないが、二人きりの時は無視される頻度が少しだけ減っていた。
「いいよ」
誠の了承を得たので、順子は部屋へゆっくりと入る。誠の部屋に入るのは久しぶりだった。
扉をくぐった瞬間、男の子の部屋特有の匂いが鼻をくすぐった。
昔と違って、制服の学ランがハンガーにかけてあるところに中学生らしさを感じる。でも、壁に貼られた日本地図は、小学生時代の名残を感じさせた。
「何」
ニヤニヤしている順子に対して、ベッドに腰掛けた誠は不信感をあらわにした。
誠にとって、順子はまだちょっとウザい。マイカの話は盛り上がるものの、思春期が生んだ溝はそう簡単に埋まるものではない。
「見せたいものがあるんだ」
順子はスマホを誠へ手渡した。誠は画面をのぞき込むと、唖然とした。
「マイカ、ライブツアー、横浜会場……?」
それは、来週開催されるマイカのライブのチケットだった。
「え! なんで!」
声が裏返るほどに驚き、順子を見上げる誠。順子は腕を組み、自慢げに答えた。
「友達にツテがあってね。チケット二枚、たまたま譲ってもらえたんだ」
「マジ! 姉ちゃんすげえ! 行こうよ!」
しかし、順子は首を縦に振らない。何かを考えるように、斜め上を見上げた。
「でもねえ」
ニヤニヤしたまま、また誠の方を向いた。
「タダであげるのもねえ」
「マジかよ。せこいな。いくらだよ」
「お金はいらないよ。チケット代は私が持つって言ったじゃん」
「じゃあ、どうすりゃいいの」
誠は順子の様子を探っている。
この、ちょっとウザい姉は、いったいどんな要求をしてくるのか。
「んー、そうだな」
順子は考えるポーズをした。でも、本当はもう決まっている。
「これからは、昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでよ」
「……はあ?」
「一文字増えるだけだよ、簡単じゃん。ママたちの前では言わなくてもいいから」
そう、これは二人だけの秘密。親がいないときの方が、誠は素直だ。
「そんな風に呼んだことなんかねえよ」
「うそ、幼稚園くらいのころは『お姉ちゃん』だったよ」
大昔の話を持ち出されて、誠は呆れた。記憶がほとんど残っていない頃の話だ。
しかし、たったそれだけで憧れのマイカのライブに行けるというなら、安いものだろう。
「わかったよ、呼ぶよ」
「じゃあ、さっそく。はい、どうぞ」
「キモ」
順子は表情を変えない。話の主導権を握っていることを確信しているためだ。
誠は諦めた顔をした。
「わかったって。『お姉ちゃん』。これでいいね? ライブに行こう」
「うん、行こう。ちゃんと予定を空けといてよね。あと、シュークリーム買ってあるから、後で食べていいよ」
満面の笑みを浮かべて、順子は部屋を去った。
ああ、『お姉ちゃん』だって。なんて甘い響き。順子は一人で思い出し、その気分に酔っていた。
これで誠もよくわかっただろう。マイカに近づくためには、私が必要だってことが。
それにしても……、チケットを譲ってもらったなんて、そんな都合のいい話があるわけないじゃん。
チケットの完売を知った後、順子はSNSを駆使して、違法転売アカウントにたどり着いた。
そこで提示されたマイカのライブチケットは、目を覆いたくなるような値段が付けられていた。
それでも順子は、迷わず二枚分の代金を支払った。
当然ながら、それは順子のお財布に大きなダメージを与えた。やばい、次の引き落とし日はいつだ。
そこで、順子はバイトのシフトを一気に増やした。シフトが入らない日は、日払いのスポットバイトだ。チケット代を手に入れるために、順子は必死になって働いた。
そして、クレジットカードの明細には、目を見張るような高額の支払いが。
順子は、それをうっとりと見つめた。
ふふ、大丈夫だよ。
これは全部、可愛い誠のためだからね。
大学生はやることがたくさん。勉学に励んだり、サークル活動を楽しんだり、恋人を作ったり。
でもまさか自分が、サークルや恋なんかじゃなくて、バイトに明け暮れることになるなんて当時は思いもしなかった。
週四のコンビニバイトの他に、スポットで深夜の倉庫仕分けや配送などのおよそ女子大生らしくないバイトをやっている。
別に、家計が苦しいわけではない。
でも、順子にはお金が必要だった。お金はいくらあっても困らない。
それが、誠のためでもあり、自分のためでもあるのだ。
順子はバイトの帰りに、駅前のケーキ屋でシュークリームを買うことにした。カスタードがたっぷり詰まった、人気の商品だ。親は甘い物を食べないから、自分と誠の分だけ。
誠、喜んでくれるかな。シュークリームと、これ。順子はスマホの画面を静かに眺める。
そういえば、あの日もシュークリームを買っていた気がする。
順子はシュークリームの支払いをしながら、二人の会話が久々に弾んだ時のことを思い出した。
*
順子の家は四人家族。父と母と、弟の誠と暮らしている。
順子は大学一年生。誠は中学二年生だ。
二人は仲の良いきょうだいだった。幼い誠は順子を慕い、順子は誠を大層可愛がった。
なお、「だった」と表現したものの、順子にしてみれば今でも仲が悪いわけではない。誠を引き続き可愛がっている。
一方の誠はろくに口を利かない。思春期や反抗期というやつで、家族の誰に対しても素っ気ない態度をとっている。
誠が初めて「ブス」と吐き捨てた日のことは、今でも鮮明に覚えている。子どもの悪口だと、あの時は笑って流したけど、胸の奥がずしりと重くなった。
なお、「ブス」よりも「デブ」の方がダメージが大きかった。順子はそこまで太っているわけではないが、他人に積極的に見せたい体型でもない。
そんな誠のことを苦々しく思っていたものの、それが中学に入ってから無視に変わってしまうと、あれはまだマシな方だったな、と気が付いた。
誠は自室に籠もっていることもあるが、Wi-Fiの電波が弱いという理由で、よくリビングで過ごした。
ところが、リビングではスマホを眺めているばかりで、家族との会話は少ない。
順子が話しかけても、短い返事があるだけで、無視されることも多い。
無視されればされるほど、順子はしつこくなっていった。しかしそれは明らかに逆効果で、誠は姉の干渉を過剰なものだと嫌っていた。
順子は、自身のことを振り返る。一足先に思春期を通過してきた身だ。
確かに、中学生くらいの頃は、親のことが疎ましかった。
親の年賀状に使われる家族写真でも、当時の私は澄ました顔をしていた。
しかし、高校生ともなると、いつの間にか憑き物が取れたように笑顔で写真に写っている。
つまり、誠のそれも、今だけの一時的なものなのだ。
理解はしているんだけれども。
少しでも早く、どうにかならないものか。
そんなある日のことだった。
大学から帰ってきた順子は、ソファに寝転がる誠を見下ろしていた。細長い足を投げ出して、誠はスマホで音楽を流している。
「シュークリーム買ってきたんだけど、食べる?」
「……」
返事はない。誠は相変わらずだ。せっかく買ってきたシュークリームにも手を出そうとしない。
でも、誠にはお姉ちゃんが必要なのだ。だから諦めるわけにはいかない。順子は自分にそう言い聞かせる。
最近の誠は、リビングでよく音楽を聞いている。それは大抵、女性ボーカルのダンスミュージックだ。
会話のきっかけを得るために、誠のスマホから流れている音楽を自身のスマホで検索してみると、すぐに結果が表示された。
それは、マイカの『Biscuit Machine』だそうだ。
マイカ。それを順子は少しだけ知っていた。正式な表記はMICA。K-POP系のダンスボーカルグループ。最近人気が急上昇中のガールズグループだ。
ネットでマイカのことを検索してみる。
リーダーで高身長のナツ、ダンススキルが特に高いと評判のユラ、キュートな妹系のエリコの三人で構成されている。
みんな当然のようにへそ出しで、ウエストが嘘みたいに細い。羨ましさから、順子は静かに奥歯を噛んだ。
いくつかのサイトを眺めて、マイカに関する情報を一気にインプットする。
よし、これで準備は万端だ。
「ねえそれ、マイカの『Biscuit Machine』でしょ」
順子は誠に話しかける。
すると、誠は目を丸くして順子の方を向いた。それは順子としては想像以上の反応だった。
「よく知ってるね、カップリング曲なのに」
よし、と順子は心の中でガッツポーズを決めた。っていうか、カップリング曲だったのか。そこまで確認していなかった。
しかし油断はできない。ここで調子に乗ると、せっかくつかんだ糸口が、一瞬で水の泡だ。
順子は、心理学の教授の雑談を必死に思い出した。下品そうな教授が、恋人を手のひらで転がすためのテクニックだよ、と言っていた話。
誠が気持ちよくなるように、慎重に言葉を選ぶ。自分の手のひらから逃さないように。
第一のテクニック。とりあえず褒める。
「誠もよく知ってるじゃん。すごいね。マイカ、好きなんだ?」
「まあね」
誠は少しとぼけた顔をした。まんざらでもなさそうだ。
第二のテクニック。答えやすい質問を与えて、相手に自由に喋らせる。
「好きな曲とかはあるの?」
「そうだな……」
誠は体を起こし、考え始めた。
「ド定番だけど、『Genie』かな。後は『White mist』とか『Gladiator』も好きだよ」
誠は真剣な顔で次々と曲名を口にした。マイカのことを語りたくてしょうがないといった様子だ。
へえ、そんなにマイカが好きだったんだ。誠のこと、よく知らなかったんだな、と順子は小さく反省した。
「うん、わかる。『Genie』めっちゃかっこいいよね」
「だよな。あのダイナミックな振り付けはマイカの魅力が出てて超好き」
そして第三のテクニックは、相手に共感すること。
『Genie』は代表曲なので、辛うじて順子も知っていた。とはいえ曲のサビがわかる程度で、振り付けなどはさっぱりわからない。
それでも充分だった。自分の推しを共有できる相手を見つけた誠は、明らかにご機嫌の様子だ。
「だけど、姉ちゃんもマイカが好きだったなんて、意外だな」
「うん、大学の友達から教えてもらってね」
嘘だ。本当はたった今スマホから教えてもらったばかりだ。
でも、誠との会話のきっかけをくれたと考えたら、マイカに対して途端に好意を感じるようになってきた。
「シュークリーム、食べる?」
「食べる」
誠は急に素直になった。マイカの力はすごい。
これだけでも充分満足だった。しかし、付け焼き刃の知識を武器にして、順子はさらに会話を重ねる。
「そういえば、今度横浜でライブがあるの、知ってる?」
「うん」
「ライブとかは行かないの?」
「そりゃ興味はあるけど、そういうの行ったことないし、よくわかんないよ」
誠はシュークリームを頬張りながら、不満げに答えた。
無理もない、まだ中学生なのだ。もしかしたら、未成年だけでは参加すらできないかもしれない。
そこで、順子はいいことを思いついた。
「じゃあ、私と一緒に行ってみる? チケット代は私が持つよ」
順子は勝ち誇った顔をした。
ライブなんて最高じゃないか。誠と時間や空間を共有できる、最高のイベント。
ところが、誠は呆れていた。
「今からチケットなんて取れるわけないじゃん。完売だよ、完売」
スマホで検索すると、確かにチケットは売り切れだ。
しかし、中学生の誠はまだわかっていない、と順子は思った。この世の中は、目に見えるものだけが全てではないのだ。
だから、お姉ちゃんが連れて行ってあげないと。
お金も、知識も、年齢も。誠に足りないもの全部、私が持ってる。
*
数日後、順子は誠の部屋へ行った。
「誠、いい?」
あの日以降、誠の順子に対する態度が軟化した。
親がいる前ではほとんど変わらないが、二人きりの時は無視される頻度が少しだけ減っていた。
「いいよ」
誠の了承を得たので、順子は部屋へゆっくりと入る。誠の部屋に入るのは久しぶりだった。
扉をくぐった瞬間、男の子の部屋特有の匂いが鼻をくすぐった。
昔と違って、制服の学ランがハンガーにかけてあるところに中学生らしさを感じる。でも、壁に貼られた日本地図は、小学生時代の名残を感じさせた。
「何」
ニヤニヤしている順子に対して、ベッドに腰掛けた誠は不信感をあらわにした。
誠にとって、順子はまだちょっとウザい。マイカの話は盛り上がるものの、思春期が生んだ溝はそう簡単に埋まるものではない。
「見せたいものがあるんだ」
順子はスマホを誠へ手渡した。誠は画面をのぞき込むと、唖然とした。
「マイカ、ライブツアー、横浜会場……?」
それは、来週開催されるマイカのライブのチケットだった。
「え! なんで!」
声が裏返るほどに驚き、順子を見上げる誠。順子は腕を組み、自慢げに答えた。
「友達にツテがあってね。チケット二枚、たまたま譲ってもらえたんだ」
「マジ! 姉ちゃんすげえ! 行こうよ!」
しかし、順子は首を縦に振らない。何かを考えるように、斜め上を見上げた。
「でもねえ」
ニヤニヤしたまま、また誠の方を向いた。
「タダであげるのもねえ」
「マジかよ。せこいな。いくらだよ」
「お金はいらないよ。チケット代は私が持つって言ったじゃん」
「じゃあ、どうすりゃいいの」
誠は順子の様子を探っている。
この、ちょっとウザい姉は、いったいどんな要求をしてくるのか。
「んー、そうだな」
順子は考えるポーズをした。でも、本当はもう決まっている。
「これからは、昔みたいに『お姉ちゃん』って呼んでよ」
「……はあ?」
「一文字増えるだけだよ、簡単じゃん。ママたちの前では言わなくてもいいから」
そう、これは二人だけの秘密。親がいないときの方が、誠は素直だ。
「そんな風に呼んだことなんかねえよ」
「うそ、幼稚園くらいのころは『お姉ちゃん』だったよ」
大昔の話を持ち出されて、誠は呆れた。記憶がほとんど残っていない頃の話だ。
しかし、たったそれだけで憧れのマイカのライブに行けるというなら、安いものだろう。
「わかったよ、呼ぶよ」
「じゃあ、さっそく。はい、どうぞ」
「キモ」
順子は表情を変えない。話の主導権を握っていることを確信しているためだ。
誠は諦めた顔をした。
「わかったって。『お姉ちゃん』。これでいいね? ライブに行こう」
「うん、行こう。ちゃんと予定を空けといてよね。あと、シュークリーム買ってあるから、後で食べていいよ」
満面の笑みを浮かべて、順子は部屋を去った。
ああ、『お姉ちゃん』だって。なんて甘い響き。順子は一人で思い出し、その気分に酔っていた。
これで誠もよくわかっただろう。マイカに近づくためには、私が必要だってことが。
それにしても……、チケットを譲ってもらったなんて、そんな都合のいい話があるわけないじゃん。
チケットの完売を知った後、順子はSNSを駆使して、違法転売アカウントにたどり着いた。
そこで提示されたマイカのライブチケットは、目を覆いたくなるような値段が付けられていた。
それでも順子は、迷わず二枚分の代金を支払った。
当然ながら、それは順子のお財布に大きなダメージを与えた。やばい、次の引き落とし日はいつだ。
そこで、順子はバイトのシフトを一気に増やした。シフトが入らない日は、日払いのスポットバイトだ。チケット代を手に入れるために、順子は必死になって働いた。
そして、クレジットカードの明細には、目を見張るような高額の支払いが。
順子は、それをうっとりと見つめた。
ふふ、大丈夫だよ。
これは全部、可愛い誠のためだからね。



