お屋敷に帰還し夕餉も食べ、ホッと一息つくと、私はさっそく宵様の寝室に押しかけた。
というよりは、お布団の上で今か今かと宵様が入浴し終えるのを待っていた。
「宵様、呪いを解かせてください!」
「……帰ってきて早々、急だな」
土下座をする私を見下ろす宵様は呆れたようにどかっと布団に腰をおろし、太ももに頬杖をつき、眉をしかめた。
風呂あがりの宵様は髪が濡れ、浴衣の胸元が緩み、とんでもない色気がだだ漏れていた。
優しく差し込む月明かりが宵様の神々しさを引き立てる。
相変わらずどんな格好でもかっこいい。いや、見惚れている場合ではない。
「呪いの力が強まる前に、お願いします!」
「本当にやるのか?」
再度、お願いする私に、宵様が眉をひそめる。
「やります」
即答した私に、宵様が目をぱちりとまたたいた。
光城様に「家畜もどき」と痛いところを突かれたのだ。
ここで引くわけにはいかない。役立たずだと思われるのが怖いし、失望されるのが怖い。
そうやって何もしないまま隣にいる方が、よほど卑怯だ。
それに、あんな風に大声で「旦那様だ!」なんて宣言してくれた宵様に、私は何もお返しできていない。
今度こそ、癒やしの力で宵様を苦しめる呪いを祓ってみせる。
身体を起こし、整った宵様の顔をじっと見つめる。
「……わかった」
唇を引き結び、私の顔をしばらく眺めた宵様はふっと長い睫毛を伏せた。
そして、なぜか帯をしゅるりとゆるめ、胸元の合わせをガバッと開いた。
「な、えええ? 脱いだ?」
普段はゆったりとした着流しに包まれてわからなかったが、広い胸が露わになる。ガッチリとしてしなやかな筋肉に覆われている。彫刻のように均整の取れた肉体だ。
「はへひえっ」
男らしい色香を漂わせる身体は刺激が強すぎる。
たまらず目を逸らし、変な汗まで噴き出てきた。
宵様はクスリと笑い、私の手を取ると、その手を見事に6つに割れた腹筋へ近づける。
ほぼパニック状態で、手の行き先を見守るしかない。
やがて手が下腹部へ下ろされそうなところで、我に返り、ぐっと力を入れ、なんとか抵抗した。
なけなしの乙女心でそこだけは死守しなければ
「いや! そこは⸺」
「呪いを解くんだろ?」
有無を言わせぬ声に、催促され、こくりと頷くしかない。
いや、でも、そこの際どい位置は直接触ったら駄目な気がする。乙女として。
ある意味ご褒美だろうが。
浴衣の上から手をかざすだけで良かったのに。
なぜこうなってしまったのか。
今さらながら、なぜ自分はノコノコと宵様の布団に乗り上げてしまったのか。
夫婦のあれこれを連想してしまう。
火照った頬にチリチリ強い視線が刺さる。
「ここに呪いがあるんだから、しっかり治せよ」
宵様そう囁くと、下腹部に私の指先を押し付けた。
滑らかな、それでいて適度に筋肉がついている弾力、素肌の熱を、指先に感じてしまった。
⸺さ、触っ?!
宵様の腹筋がわずかに震え、そっと触れる指先に振動が伝わる。笑いを堪えているのだろう。ひどい。
そろりと目を上げると、覗き込んで来る顔にはっきりと笑みが浮かんでいる。
それは艶っぽい雰囲気など全くない、揶揄いの笑みで。
「……からかわないでください!!」
羞恥と笑顔の破壊力に心臓が壊れそう。
ぐぎぎ、と力いっぱい腕を引き、体に引き寄せようとするが、びくともしない。
反対に、指先に触れる振動が激しくなり、くつくつも笑う声も大きくなってしまった。
「はは、ああ、悪かった」
笑いを含んだ声で言われても、説得力ないんですけど。
こちらは乙女の恥じらいが大変なことになっているというのに。
怒りと気まずさでキッと睨みつけると、宵様の瞳は楽しげに煌めき、煽るように片眉をあげた。
「悪いと思ってないですよね! そのお顔! かっこいいですけど!」
むっと頬を膨らませると、はは、と声を上げて笑いだしてしまう。
しばらくして宵様は笑いを収めるように、はあ、と大きく息をついて。
「まったく……本当に、愛らしいな」
柔らかな笑いとともにしみじみと落とされた言葉に、とくりと鼓動が甘くはねてしまう。
「よ、宵様も本当にかっこいいですね?」
おかしな動きをする心臓と気持ちを、さとられたくなくて、そう誤魔化すように言えば。
「…………ああ」
宵様は言ってしまった言葉に驚いたような、その意味を深く考え込むような表情をしていた。
首を傾げると、はっと宵様は手を離してくれた。
未だに露わになる素晴らしい上半身を直視できないが、咳払いをして気を取り直す。
じんじんと熱い指先をぎゅっと握りしめ、居住まいを正した。
「えっと、では始めます!」
「無理はするな」
宵様はふっと目を細めた。
「はい」
頷きながらも、私は左手を差し出し下腹部にそっとかざした。浴衣の上から。
目を閉じ、身体の奥にある力に意識を集中させる。
体の奥から力を引き出す感覚に身を任せてると、温かな光が指先に集まっていく。
眩い白銀光が私の手元から溢れ、宵様の身体を包み込んでいく。
宵闇を照らす、後光が射したような宵様はそれはそれは美しい。
宵様の眉間に刻まれていた苦痛の皺がわずかに緩む。
呼吸も穏やかになった。
やっと宵様をあの見るのも辛い、呪いの痛みから解放させられる。
瞳の力も解放し、呪いの元凶である黒い靄を見据えながら、癒やしの力をそこに向かい流し込む。
⸺大丈夫
いつもなら、この浄化の光でちょっとした呪いや邪気は消え去るはずだった
その瞬間、ぞわり、と光の奥から何かが蠢いた。
「――っ!」
膨れ上がった黒い靄が光を喰らうように広がる。
ずずず、と意思を持つように、黒い靄は抗うように光を呑み込む。
刹那、背筋が凍る。全身の毛が総毛立つのを感じた。
かざした手にずるずると黒い靄が這い上がり、絡みついてこようとしていた。
まるで身体の中になにかが割って入ろうとするように、ずぷりと深い沼に引きずり込まれた感覚がした。
冷たい。重い。暗い。
靄に触れたその時から、視界は暗闇に閉ざされ、耳鳴りのように誰のものかわからない無数の悲鳴がずっと耳奥に反響する。
これまで見えていたのは、呪いのほんの僅かな表面だけ。
その奥には、想像もつかないほど巨大な禍々しい穢れが巣食っている。
⸺諦めない
絞り出すように力を集中させた瞬間、ひしゃげたように視界を覆う闇がくしゃくしゃに丸めたように歪む。
成功したかと思ったのも束の間、膨れ上がった黒いもやに光は弾かれた。
「ぎゃっ!」
同時に、身体が後ろへ吹き飛ぶ。
畳に叩きつけられ、止めていた息を呻きとともにはきだした。
視界がぐらぐら揺れ、なにも見えない。
それでも、わかる。未だにあの呪いは宵様の身体に残っている。
「螢!」
気づけば宵様が私を抱き起こしていた。
「大丈夫か」
「あ、あの……」
答えようとして、言葉が出なくて、私は唇を噛んだ。
呪いの正体が余りにも根深く禍々しいこと。呪いに触れたことで感じたあの悲鳴はなんなのか。
あと一歩、いやもう少しで呪いの正体を掴めそうだったこと。
「すみません」
けれど、もう謝罪しか浮かばなかった。
「ごめんなさい……」
最初は手応えがあった。祓えると思ったのに駄目だった。
呪いを侮って、自分の力を過信していた。
今まで浄化してきたような呪いとは、濃さも密度も、禍々しささえまるで違った。
ありったけの力を注ぎ込んだのに、どうして消えなかったのだろう。
まさか力が足りなかったのだろうか。
いや、化け物と里で恐れられるくらい、『癒やしの力』は申し分ないはずだ。
それとも。
⸺私が運命の女性ではないから、呪いが祓えないのか。
絶望が胸に押し寄せる。
せっかく薬として拾ってもらったのに。
癒やしの力さえ通用しないなら、私は本当に、宵様の側にいる理由がない「家畜もどき」じゃないか。
今さら嘆くつもりもないし、光城様に宣言した通りに、どんな形でも居座るつもりだけれど。
宵様に見限られることなんかよりも、このまま宵様が呪いで苦しむ姿を見ることしかできないのがやっぱり辛い。
悲しみに胸が苦しくなる。
悔しさで、情けないことに、視界がじんわりと滲んできた。
膝の上でぎゅっと拳を握りしめ、うつむく。
「螢」
宵様の声が降る。
「謝るな」
「でも……」
慰めの言葉は、静かに胸に響いて、すん、と鼻をすすりながら顔を上げる。
薄暗い部屋の中で、緋色の双眸と自然と視線が絡む。
そこに怒りも落胆の色も乗っていない優しい色しかない。
本格的に瞳が潤みだしてしまいそうな気配に、ぱちぱちと瞬きで散らす。
やがて、 衣擦れの音すら艶めかしく感じるほど、ゆっくりと体が近づき、こつりと宵様は額を合わせた。
額から伝わるぬくもりに、混乱する頭が少しずつ凪いでいく。
「……呪いが解けないのは、お前のせいじゃない。大丈夫だ」
「……え? でも!」
どこか諦めた悲しい声はどこか懺悔めいた響きを持っていた。
呪いを受けた事件は原作で知ってはいる。それでも、歯がゆさで反論しようと口を開いた。
「痛っ」
けれど、言い終わる前に、おでこに軽い痛みを走った。ごちんと頭突きを食らったのだ。
顔を上げると、宵様がやれやれとため息をついているところ。
「お前は本当に阿呆だ。話を聞け」
「で、でも宵様が苦しむ姿なんて見たくないです。だって……私が悲しいです!」
食って掛かる私を見つめた宵様は、ぱちりと目を見張った後、ふっと頬を緩めた。
「……螢なら……そういうよな」
「はい!」
「本当にわかったのかよ」
宵様は、私のおでこに手を伸ばす。
ぶっきらぼうな口調に反して、私のおでこを撫でる手つきはひどく優しい。
うう、かっこいい。解呪を失敗してしまったのに、ご褒美を頂いてしまった。
大事にしていると言わんばかりの仕草に、妙にどきどきとしてしまう。
「あのですね。今まで見た呪いとは違います。奥にもっと大きな何かがありましたっ」
どぎまぎし過ぎて、脈絡ないことを言ってしまった。でも報連相は大事。たぶん。
宵様の目が細められる。
「そうか」
短い沈黙。
宵様は真紅の瞳でじっと見つめた。
ちょうど雲が切れたのか、窓から射す月光に真剣な表情が浮かびあがる。
突然、胸が引き絞られたような心地がして、喉を鳴らしてしまう。
そして、宵様は何かを思いついたように口端を上げる。
「お前の力が足りないわけじゃない。この呪いが少々厄介なだけだ。……一人、知っている人間に心当たりがある」
「……心当たり、ですか?」
「ああ」
「真澄の祖母だ。俺にお前の里の場所を教えた。そいつに話を聞きにいけばいい」
落ち込む隙すら与えない、強引で頼もしい宵様。
揺るぎない強さをもつ姿が好きだ。憧れている。
そんな宵様の側にいられる幸せで目が眩みそう。
自分の罪に目を背けたくなるほどに。

