「よしっ、廊下の水拭き……これにて完了!」
私は長い廊下の端にへたり込み、ほう、と大きな息を吐き出した。
目の前では、さきほどまで曇っていた板張りの廊下が、外の光を反射してぴかぴかと光っている。
へへっ、と達成感に頬を緩めていると、パタパタと慌ただしい足音がして、暁と東雲が駆け寄ってきた。
「お嫁さん! もういいですから!」
「俺達がやるから!」
「休んでください!」
「えー」
雑巾を桶で洗いながら、不満をもらしていると、視界の端に東雲の指先に血が滲んでいるのを捉えた。
「東雲。お手」
「ん?」
私の言葉にきょとんと目を丸くした東雲が、差し出した私の右の掌に、ぽんと小さな手を乗せてくる。
妖狼とはいえ、染み付いた本能には抗えないらしい。本人は乗せたあとにハッとしていたけれど。
「怪我してるよ……」
「あ! さっき、包丁で切ったのか?」
人差し指から滲んだ血はまだ新しく、本人も気づかぬ間に包丁で切ってしまったらしい。
怪我をしたまま調理や水仕事は辛いだろう。
私は右手に意識を集中させ、白銀に光る『癒やしの力』をその傷口へと流し込んだ。
血の滲む傷口はあっという間に塞がり、瞬きする間に跡形もなく治癒していく。
「傷が一瞬で消えた!」
「妖でもそんなにすぐ傷が治るのは大妖怪くらいなんですよ!」
「小さな傷だし……簡単だよ」
「なあ、もっと大きな怪我も治せるのか?!」
「んー、首と胴体が離れたりしなければ、大抵のものは治せるよ」
苦笑しながら頷くと、まじまじと私の手のひらを見つめる東雲と暁だ。
凄いものを見る目を向けられているが、この手の平が治癒能力の本体ではないんだけどな。
どこからでも力は放出できる。ただ、手のひらから治癒するほうが力が調節しやすいだけなのだ。
「また怪我したら声かけてね。治すからさ」
ひらひらと手を動かし、微笑む。
光城様が訪ねて来た日から、数日たったが、私は張り切って双子の仕事を手伝うようにしている。
だって、何の対価も払わずにただ保護され、三食を与えられて寝て過ごすだけの生活なんて、贅沢すぎて心苦しい。
だがどう頑張っても、花嫁修業もしたことがなく、山奥の小屋に捨て置かれた私にできることなんてなかった。
家事すら満足にできない私が、このお屋敷で唯一役に立てるとしたら、せいぜい『薬』代わりになることくらいなのだから。
「凄おい……」
東雲が目を輝かせるが、ふいに隣の暁が、ぺしょんと獣耳と尻尾を下げた。
「お嫁さん、無理していませんか?」
「えっ?」
もじもじと前掛けを握りしめる暁の顔が、わずかに強張っている。
見れば、東雲も尻尾を抱え、同じような顔をして私を見つめていた。
「アイツが余計なこと言ったから……」
「俺、ちゃんとあいつに塩撒いといたぞ!」
「大丈夫だよ。本当のことを言われてびっくりしたけど……」
双子は、私が自ら「薬として置いてほしい」と願い出て宵様に拾われたことを知らない。
あの日以来、食事のときくらいしか会話をしない私と宵様の仲をとても心配してくれている。
元々会話が弾むような間柄でもない。それに。
宵様の気まぐれな優しさに縋り付いているだけの関係なのに。
「恩返しはやっぱりしたいからさ。協力してくれると嬉しいな!」
胸の前で腕を引き、グッと握りこぶしを作ってみせる。
「……っ、少しだけだからな!」
「無理しそうになったら、すぐ止めますからね!」
びしっと人差し指で私の顔を指す東雲と頬を膨らます暁だ。
文句を言いながらも、私の気持ちを優先してくれる二人に、笑みがこぼれる。
「東雲と暁、ありがとう!」
ちぎれんばかりに尻尾を揺らす二人は、それぞれ私の手を取る。
「今日のもふもふがまだですよ……」
「俺は尻尾から撫でてくれ!」
二人ともに尻尾と獣耳のなでなでをせがまれた。
獣耳と尻尾を出すのも怖がっていた二人の変わりように、胸がくすぐったくなるほど嬉しい。
ほんの少しだけでも、東雲と暁の役に立てたのかな。
元はといえば、自らの失態で失いかけたが、もふもふは皆にとっては宝なのだ。
何より私自身も、屈託なく懐いてくれる二人の獣耳と尻尾を撫でる時間は癒やしで、ずっと撫で続けていたいくらいだ。
「いーっぱいがんばります!」
そう宣言すると双子の耳と尻尾がわかりやすく反応する。
差し出された獣耳と尻尾に手を伸ばした。
◇◇◇◇
その日の夜。
寝る準備をした私は縁側でひとり、庭を眺めていた。
宵闇に染まった空の下、月明かりに照らされた木々をぼんやり見つめる。
廊下の雑巾がけや窓拭きを頑張ったからか、手足が心地よく重だるい。
けれど、この疲労感は嫌いじゃなかった。
「明日は……なにをさせてもらおうかな」
ふと書庫に乱雑に積み重なった本が頭に浮かぶ。
明日の朝食時に宵様へ尋ねてみようかと思ったその時。
「お嫁さんと行ってきてくださいね。明日、必ずですよ!」
「は? なんで俺が」
居間から聞こえてきた大きな声に、肩を揺らした。
自分の名前が出て、どきっとしてしまう。
どうやら双子が宵様に詰め寄っているみたいだ。
聞きたくないのに、耳が勝手に言葉を拾う。
「行かないと、ほんとに嫌われるぞ!」
「そうですよ! いつも宵様が僕達に言うじゃないですか。『言える言葉はすぐ言え』って! 『いつか会えなくなってからじゃ後悔するぞ』って!」
「……チッ。わかった、わかったから押すな」
双子の必死な剣幕に押されたのか、不機嫌そうな舌打ちと共に、廊下を踏み鳴らす足音が縁側へと近づいてきた。
私は慌てて居住まいを正す。
障子が開かれ、宵様が、気まずそうに顔を逸らしながら縁側にどかっと腰掛けた。
「あの……宵様」
「明日、街に買い出しに行く。双子がお前を連れ出せとうるさい」
「宵様とお出かけ……ですか」
二人で街へお出かけ。まさかデートという都市伝説の出来事かな。
いやいや、それは仲良い男女の間でしか成り立たない。
これはただの『はじめてのおつかい』だ。しかも保護者付きの。
役に立つ良い機会だ。
買い物なら前世でもしており、よほど変なものを買うわけでなければ失敗しないだろう。
「えっと……なにを買うんですか?」
「ん? お前は知らないだろうから描いてやる」
宵様は懐から一枚の和紙を取り出し、私に絵を描いて見せた。
すらすらと淀みない筆運びは見事だった。ほんとうに筆運びは見事だった。
「これだ」
満足気な宵様の声とともに、差し出された紙。私は固まった。
そこには、墨で力強く、何かの物体が描かれていた。
「…………」
早速、お使いの雲行きが怪しくなってきた。けれど、ここで諦めるわけにはいかない。
ぐちゃぐちゃっとした黒い線が、かろうじて丸を描いている。
真っ黒に塗りつぶされているところから察するに。
「……泥の妖ですね。たしかに仲間が増えるのは良いことです」
「ちぃっ……」
とんでもなく主張の激しい舌打ちが返ってきた。
隣からの冷気で紙を持つ手が震えていく。
「……『ぷてぃんぐ』だ。ハイカラな洋菓子だ。お前、知らないのか」
「あー、そのー! プリンの質感を独特な筆致で描いてありますねっ!」
「『ぷてぃんぐ』を見たことないだろ! それにぷりんではなくぷてぃんぐだっ!」
「プディングとプリンは名前が違うだけで同じものですよ。それにプリンくらい何度も見たことあります」
今度は宵様が絶句した。
私の心を読んで、嘘をついてしないとわかったのだろう。
なんでも筒抜けなのが、これほど楽だとは。便利ともいえる。
そうなのだ。宵様にはなんでも聞かれてしまうならば、いまさら取り繕う必要もない。
そう思った瞬間、ふっと肩の力が抜ける。
「宵様」
「あ?」
「この絵の独創的な『ぷてぃんぐ』食べたくなりました。泥みたいですけど」
心が軽くなりすぎて、つい口が滑ってしまった。
「喧嘩売ってんのか」
「いえ、その……私のために頑張って描いてくださったのが嬉しくて」
「……」
宵様はむすっとした顔のまま、紙をくしゃりと握り潰して懐に隠してしまった。
「あっ、せっかく描いたのに欲しかった!」
「うるせぇ」
どこか居心地悪そうに視線を逸らしている。
もしかしてご自覚がないのかも。
それでも一生懸命に、私が理解できるように描いてくださった。
とんでもない贈り物をいただいた気がして、胸の奥がじんわり温かくなった。
それにしても宵様が描いた絵。絵の内容はさておき家宝だろう。
欲しかったけれど、見られただけでも僥倖だ。
数々の家宝級の思い出を永久保存するためにもうこれは蔵を建てないといけないな。
人生を豊かにする宵様専用の蔵を心の中に。
「……なんだよ。蔵って」
呆れたような声。なのに、やっぱり響きは甘い。
おまけに、月明かりのなかで彼の耳の端が少しだけ赤くなっているのが見えた。
「お気遣いなく……勝手に作りました。あの明日って………」
「さっきから行く前提だろうが」
「はいっ!」
食い気味に返された声に、へらりと笑ってしまう。
すると宵様は一瞬だけ目を細めた。
「……なんで笑う」
「宵様とお出かけが嬉しいので!」
「そうか」
優しいを通り越し、とろけるような緋色の瞳と視線がぶつかり、心臓が跳ねた。
それでも目を逸らしたくなくて、はにかみながら見つめ返す。
「…………」
見たこともないほど切なげな宵様の顔に、指先ひとつ動かせない。
頬を撫でる初夏の湿った夜風に宵様の香りがふわりと混じった。
近くなった距離に、我に返る。
すぐに身を引こうとしたが、それより早く宵様の手が頰に添えられる。
熱い指先が頰をするりと撫で、熱を滲ませていく。
宵様の手のひらに、そっと優しい力がこもった。
「少しは肉付いたか?」
そして、遠慮なくぷにぷにと宵様の手が頬をつまんだ。
「おかげさまで……」
「ああ……よく食え」
「ありがとうございます」
よくわからない体調チェックをされ、宵様の手は離れていく。
離れていく温もりが寂しく感じる。それでもどこか胸の奥で、安堵もしてしまう。
「ん?」
首を傾げる私を見て、宵様は優しい瞳でこちらを伺うようにじっと見つめていた。

