「適当に座っとき」
銀也にそう言われ、私はぎこちなく茶の間へ上がった。
畳の匂い。
古いちゃぶ台。
壁に貼られたカレンダー。
何度も見てきた景色のはずなのに。
銀也がいるだけで、知らない部屋みたいだった。
この部屋で宿題をしたり、スイカを食べたり、くだらないことで喧嘩した記憶がぼんやり蘇る。
奥の台所から、ガスコンロに火をつける音が聞こえた。
座っておいてと言われたものの、落ち着かない。
私は立ち上がって、そっと台所を覗き込んだ。
「あれ、茶ぁどこやっけ」
間抜けな声が聞こえる。
銀也は戸棚を開け閉めしながら、茶筒を探していた。
袖を無造作にまくった白シャツ姿が、妙に大人びて見えた。
やがて、コンロのやかんが白い湯気を吐き始めた。
私の視線に気付いたのか、銀也は振り返る。
「どしたん?」
「……別に。お茶っ葉、探してるの?」
「そう。いやぁ、ばあちゃん家久しぶりやから、どこにあるか全然わからへんねん」
私は食器棚の前にしゃがみ込み、観音扉を開けた。
奥に置かれていた茶筒を取り出し、銀也に差し出す。
「はい」
銀也は目を丸くした。
「なんでわかったん?」
「時々遊びに来てるの」
「へぇ。ばあちゃんの『茶飲み友だち』ってことか」
「まぁそんな感じかな」
ついでに急須と湯呑みも二つ取り出す。
その時、ピューッ、とやかんが甲高い音を鳴らした。
私は火を止め、湯呑みにさっとお湯を注いだ。
すると銀也が、何も言わず茶筒を差し出してきた。
私はそれを自然に受け取り、急須へ茶葉を二杯入れた。
温まったところでお湯を急須へ移すと、ふわりと、青くやさしいお茶の香りが立ち上る。
「おー、手際ええなぁ」
後ろから、銀也が感心したような声が落ちてきた。
「おばちゃんに教わったの」
少しだけ得意げに答えると、昔、おばあちゃんの隣でお茶の淹れ方を教わった記憶がよみがえった。
『湯呑みは先に温めるんよ』
懐かしい声が、耳の奥で重なる。
銀也はくすっと笑う。
「なるほどなぁ。キク、昔から変なとこだけ妙に真面目やったもんな」
「『変なとこだけ』は余計」
むっとして振り返ると、銀也は楽しそうに目を細めた。
私はなんとなく視線を逸らし、静かに急須へお湯を注いだ。
***
湯呑みから、湯気がふわりと立ち上る。
狭い茶の間。
向かいに座る銀也との距離が近すぎて、なんだか落ち着かない。
白いシャツの襟元から覗く鎖骨とか、昔より広くなった肩幅とか。
視界に入るたび、変に意識してしまう。
銀也は湯呑みを手に取り、ふぅ、と息を吹きかけた。
立ち上る湯気が、細められた目の前でゆらゆら揺れる。
「……なんで普通にお茶飲んでんのよ」
思わず呆れた声が漏れた。
「なんでって、お茶出したん僕やし」
「そういう意味じゃなくて! ってか、淹れたの私だから! あんたは運んだだけでしょ!」
銀也は肩を揺らして笑う。
「まぁまぁ。キク、ほんま顔に出るなぁ」
「銀也がムカつくからでしょ」
「おー、懐かし。そういう言い方」
銀也は湯呑みを傾け、今度はじっと私を見つめた。
居心地の悪い視線に、私は眉を寄せる。
「……なによ」
「いやぁ」
口元を緩め、頬杖をついた。
「ほんまにキクなんやなぁ思て」
「は?」
「髪染めて、化粧して。別人みたいや」
そこで一度、私の顔をまじまじと見てから、
「今はすっぴんみたいやけど」
なんて付け足す。
「うっさい」
反射的に睨み返したけれど、その言い方が妙に優しくて、落ち着かない。
「……悪かったわね」
拗ねたみたいに呟くと、銀也は口角の片方だけをクイッと上げた。
「誰も悪いなんて言うてへんよ」
ふっと、目を細める。
「綺麗になったなぁ、って思ただけ」
私は口を固く結び、湯呑みへ口をつける。
視線が泳ぐ。
「……別に。……あんたは、全然変わってないね」
私がそう言うと、銀也は少しだけ黙った。
さっきまで浮かべていた笑みが、わずかに薄れる。
「そうでもないで」
吐き捨てるように言った。
「変わったもんなんか、山ほどある」
自分ごと切り捨てるみたいな声だった。
でも銀也は、すぐにいつもの顔へ戻る。
「まぁキクには関係ない話やけど」
薄く笑って、湯呑みを傾けた。
その言い方がやけにに引っかかった。
関係ないわけ、ないのに。
胸の奥に溜まっていたものが、じわじわと熱を持つ。
「……今まで、どこにいたの」
気づけば、口から零れていた。
銀也は湯呑みの縁に視線を落とした。
「京都や」
何でもないことみたいに、銀也は答えた。
「京都?」
「せや。ちょっと家の事情でなぁ」
顔を上げ、いつもののらりくらりとした調子で笑った。
でも。
その「家の事情」という言葉だけが、耳に残った。
「『家の事情』って──」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
銀也は何も言わなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
踏み込むな。
その目が、そう言っていた。
やがて銀也は、ふっと口元だけで笑う。
「これもキクには関係ないことやから。キクが気にせんでええねん」
銀也は軽く肩を竦めた。
いつも通りの、掴みどころのない顔。
でも、その笑みの奥に、一瞬だけ知らない影が見えた気がして、私はそれ以上、何も聞けなくなった。
視線を逸らす。
茶の間に、しん、と沈黙が降りる。
私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「……関係ない、か」
ぽつりと呟く。
関係ない。
ただの昔馴染み。
そう言われるたび、胸の奥が針で刺されたみたいに痛んだ。
だったら。
なんであんな顔で笑うの。
なんで昔みたいに接するの。
悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからない。
ぐちゃぐちゃになった感情が、行き場を失ったまま胸の中で渦を巻く。
「……じゃあ」
私はゆっくり顔を上げた。
「なんで、駅であんな言い方したの」
銀也の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「『ただの昔馴染み』って。……突き放したくせに、昔みたいに話して。お茶飲もうって言って」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
それでも、一度溢れた言葉は止まらず、勝手に口から零れていく。
「……銀也の中で、私って何なの」
銀也は少しだけ目を伏せ、湯呑みを握った。
「難しいこと聞くなぁ」
「誤魔化さないで」
「誤魔化してへんよ」
銀也は息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
「昔馴染みは昔馴染みや」
「じゃあ──」
私の言葉を遮るように、銀也は小さく鼻で笑った。
「でも」
そこで言葉を切る。
細められた目が、ふっと柔らかくなる。
「キクが泣き虫なん、今でも覚えとるくらいには、特別やで」
「……は!?」
思わず変な声が出た。
銀也は肩を揺らして笑う。
「なんやその反応」
「急にそういうこと言うのやめてくれる!?」
「ほんまのことやし」
「そういうとこ、昔からズルい! ってか、私の質問に全然答えてないし!」
「そんな小鳥みたいにピーピー騒がんでも。ほんま元気やねぇ」
「……この腹黒男……!」
立ち上がり、拳を握り締めた。
一発くらい殴っても許されるんじゃないかと思った。
その時。
ガラガラ、と玄関の方から戸が開く音がした。
「ただいまぁ」
聞き慣れたおばあちゃんの声も飛んできた。
茶の間の空気がふっと緩む。
「お、帰ってきた」
銀也は何事もなかったみたいに立ち上がり、玄関に向かった。
「……っ」
行き場を失った拳が、わなわなと震える。
「キクちゃん来とったん? あらまぁ、上がってたんやねぇ」
おばあちゃんは風呂敷包みを提げたまま、にこにこと茶の間を覗き込んだ。
私はさっと拳を下ろし、背筋を伸ばした。
「お、お邪魔してます……」
「あら、お茶飲んではったん?」
おばあちゃんはテーブルに目を向けた。
「あ、ギンがお茶飲んでけって言うから」
「あらそう」
おばあちゃんは意味ありげに目を細めた。
「昔話、少しはできはった?」
「……っ」
さっきの言葉が、不意に頭の中で蘇る。
─特別やで。
「少しできたで」
平然とした顔で、銀也が会話に割って入る。
「なっ?」
そう言って、私の顔を覗き込んだ。
かぁっと顔が熱くなる。
「あっ、おばあちゃん! 私、そろそろお暇します!」
茶の間の出入り口へ向かい、おばあちゃんの背後に逃げ込むみたいに回り込んだ。
「もう帰るの? 残念やわぁ。私もキクちゃんとお喋りしたかったのに」
「ほ、ほら! もう夕飯時だし……! お母さんも待ってると思うし!」
しどろもどろに言い訳しながら、じりじり後ずさる。
「ま、また今度喋ろう! それじゃ!」
私は逃げるように玄関に向かい、勢いよく靴を突っかけ、戸へ手を掛ける。
「キク」
背後から、不意に名前を呼ばれた。
心臓が跳ねる。
振り返ると、銀也が廊下に立っていた。
壁にもたれ、細い目でこちらを見ている。
「……なによ」
「また来ぃや」
優しい声だった。
さっきの張り詰めた空気なんて、なかったみたいに。
「ばあちゃん、キク来ると嬉しそうやし」
「……おばあちゃんが、でしょ」
「僕も嬉しいで」
さらっと言って、銀也は笑った。
「っ……!」
腹立つ。
ほんと、腹立つ。
なのに。
どうしようもなく……。
「お邪魔しました!」
私は勢いよく、玄関の戸を閉めた。
ーーーーーー
「キクちゃん、慌てて帰ってしもたねぇ」
祖母が湯呑みを片付けながら、くすくす笑う。
「相変わらず騒がしい子やなぁ」
銀也は気のない声で返した。
「でも、嬉しそうやったえ。銀也も」
「……そうやった?」
銀也は小さく笑う。
「あっ、キクが肉じゃが持ってきてくれたで。なんや、『新じゃが』のお礼や言うとったよ」
「あらそう。嬉しいわぁ」
祖母が流しで湯呑みに手を伸ばした。
「ええよ」
銀也がさっとそれを受け取る。
「洗っとくわ」
「あら、ありがとう」
祖母は銀也に湯呑みを任せ、壁に掛けてあった割烹着へ手を伸ばした。
「四年やもんなぁ」
祖母がぽつりと呟く。
その言葉に、銀也の笑みがわずかに薄れた。
「……長かったわ」
銀也は流しに視線を落としたまま、小さく呟いた。
蛇口から流れる水音だけが、静かな台所に響いていた。
銀也にそう言われ、私はぎこちなく茶の間へ上がった。
畳の匂い。
古いちゃぶ台。
壁に貼られたカレンダー。
何度も見てきた景色のはずなのに。
銀也がいるだけで、知らない部屋みたいだった。
この部屋で宿題をしたり、スイカを食べたり、くだらないことで喧嘩した記憶がぼんやり蘇る。
奥の台所から、ガスコンロに火をつける音が聞こえた。
座っておいてと言われたものの、落ち着かない。
私は立ち上がって、そっと台所を覗き込んだ。
「あれ、茶ぁどこやっけ」
間抜けな声が聞こえる。
銀也は戸棚を開け閉めしながら、茶筒を探していた。
袖を無造作にまくった白シャツ姿が、妙に大人びて見えた。
やがて、コンロのやかんが白い湯気を吐き始めた。
私の視線に気付いたのか、銀也は振り返る。
「どしたん?」
「……別に。お茶っ葉、探してるの?」
「そう。いやぁ、ばあちゃん家久しぶりやから、どこにあるか全然わからへんねん」
私は食器棚の前にしゃがみ込み、観音扉を開けた。
奥に置かれていた茶筒を取り出し、銀也に差し出す。
「はい」
銀也は目を丸くした。
「なんでわかったん?」
「時々遊びに来てるの」
「へぇ。ばあちゃんの『茶飲み友だち』ってことか」
「まぁそんな感じかな」
ついでに急須と湯呑みも二つ取り出す。
その時、ピューッ、とやかんが甲高い音を鳴らした。
私は火を止め、湯呑みにさっとお湯を注いだ。
すると銀也が、何も言わず茶筒を差し出してきた。
私はそれを自然に受け取り、急須へ茶葉を二杯入れた。
温まったところでお湯を急須へ移すと、ふわりと、青くやさしいお茶の香りが立ち上る。
「おー、手際ええなぁ」
後ろから、銀也が感心したような声が落ちてきた。
「おばちゃんに教わったの」
少しだけ得意げに答えると、昔、おばあちゃんの隣でお茶の淹れ方を教わった記憶がよみがえった。
『湯呑みは先に温めるんよ』
懐かしい声が、耳の奥で重なる。
銀也はくすっと笑う。
「なるほどなぁ。キク、昔から変なとこだけ妙に真面目やったもんな」
「『変なとこだけ』は余計」
むっとして振り返ると、銀也は楽しそうに目を細めた。
私はなんとなく視線を逸らし、静かに急須へお湯を注いだ。
***
湯呑みから、湯気がふわりと立ち上る。
狭い茶の間。
向かいに座る銀也との距離が近すぎて、なんだか落ち着かない。
白いシャツの襟元から覗く鎖骨とか、昔より広くなった肩幅とか。
視界に入るたび、変に意識してしまう。
銀也は湯呑みを手に取り、ふぅ、と息を吹きかけた。
立ち上る湯気が、細められた目の前でゆらゆら揺れる。
「……なんで普通にお茶飲んでんのよ」
思わず呆れた声が漏れた。
「なんでって、お茶出したん僕やし」
「そういう意味じゃなくて! ってか、淹れたの私だから! あんたは運んだだけでしょ!」
銀也は肩を揺らして笑う。
「まぁまぁ。キク、ほんま顔に出るなぁ」
「銀也がムカつくからでしょ」
「おー、懐かし。そういう言い方」
銀也は湯呑みを傾け、今度はじっと私を見つめた。
居心地の悪い視線に、私は眉を寄せる。
「……なによ」
「いやぁ」
口元を緩め、頬杖をついた。
「ほんまにキクなんやなぁ思て」
「は?」
「髪染めて、化粧して。別人みたいや」
そこで一度、私の顔をまじまじと見てから、
「今はすっぴんみたいやけど」
なんて付け足す。
「うっさい」
反射的に睨み返したけれど、その言い方が妙に優しくて、落ち着かない。
「……悪かったわね」
拗ねたみたいに呟くと、銀也は口角の片方だけをクイッと上げた。
「誰も悪いなんて言うてへんよ」
ふっと、目を細める。
「綺麗になったなぁ、って思ただけ」
私は口を固く結び、湯呑みへ口をつける。
視線が泳ぐ。
「……別に。……あんたは、全然変わってないね」
私がそう言うと、銀也は少しだけ黙った。
さっきまで浮かべていた笑みが、わずかに薄れる。
「そうでもないで」
吐き捨てるように言った。
「変わったもんなんか、山ほどある」
自分ごと切り捨てるみたいな声だった。
でも銀也は、すぐにいつもの顔へ戻る。
「まぁキクには関係ない話やけど」
薄く笑って、湯呑みを傾けた。
その言い方がやけにに引っかかった。
関係ないわけ、ないのに。
胸の奥に溜まっていたものが、じわじわと熱を持つ。
「……今まで、どこにいたの」
気づけば、口から零れていた。
銀也は湯呑みの縁に視線を落とした。
「京都や」
何でもないことみたいに、銀也は答えた。
「京都?」
「せや。ちょっと家の事情でなぁ」
顔を上げ、いつもののらりくらりとした調子で笑った。
でも。
その「家の事情」という言葉だけが、耳に残った。
「『家の事情』って──」
そこまで言いかけて、言葉が止まる。
銀也は何も言わなかった。
ただ静かに、こちらを見ていた。
踏み込むな。
その目が、そう言っていた。
やがて銀也は、ふっと口元だけで笑う。
「これもキクには関係ないことやから。キクが気にせんでええねん」
銀也は軽く肩を竦めた。
いつも通りの、掴みどころのない顔。
でも、その笑みの奥に、一瞬だけ知らない影が見えた気がして、私はそれ以上、何も聞けなくなった。
視線を逸らす。
茶の間に、しん、と沈黙が降りる。
私は膝の上で、ぎゅっと手を握った。
「……関係ない、か」
ぽつりと呟く。
関係ない。
ただの昔馴染み。
そう言われるたび、胸の奥が針で刺されたみたいに痛んだ。
だったら。
なんであんな顔で笑うの。
なんで昔みたいに接するの。
悲しいのか、怒っているのか、自分でもわからない。
ぐちゃぐちゃになった感情が、行き場を失ったまま胸の中で渦を巻く。
「……じゃあ」
私はゆっくり顔を上げた。
「なんで、駅であんな言い方したの」
銀也の表情が、ほんの一瞬だけ固まった。
「『ただの昔馴染み』って。……突き放したくせに、昔みたいに話して。お茶飲もうって言って」
自分でも驚くくらい、声が震えていた。
それでも、一度溢れた言葉は止まらず、勝手に口から零れていく。
「……銀也の中で、私って何なの」
銀也は少しだけ目を伏せ、湯呑みを握った。
「難しいこと聞くなぁ」
「誤魔化さないで」
「誤魔化してへんよ」
銀也は息を吐いて、背もたれに寄りかかった。
「昔馴染みは昔馴染みや」
「じゃあ──」
私の言葉を遮るように、銀也は小さく鼻で笑った。
「でも」
そこで言葉を切る。
細められた目が、ふっと柔らかくなる。
「キクが泣き虫なん、今でも覚えとるくらいには、特別やで」
「……は!?」
思わず変な声が出た。
銀也は肩を揺らして笑う。
「なんやその反応」
「急にそういうこと言うのやめてくれる!?」
「ほんまのことやし」
「そういうとこ、昔からズルい! ってか、私の質問に全然答えてないし!」
「そんな小鳥みたいにピーピー騒がんでも。ほんま元気やねぇ」
「……この腹黒男……!」
立ち上がり、拳を握り締めた。
一発くらい殴っても許されるんじゃないかと思った。
その時。
ガラガラ、と玄関の方から戸が開く音がした。
「ただいまぁ」
聞き慣れたおばあちゃんの声も飛んできた。
茶の間の空気がふっと緩む。
「お、帰ってきた」
銀也は何事もなかったみたいに立ち上がり、玄関に向かった。
「……っ」
行き場を失った拳が、わなわなと震える。
「キクちゃん来とったん? あらまぁ、上がってたんやねぇ」
おばあちゃんは風呂敷包みを提げたまま、にこにこと茶の間を覗き込んだ。
私はさっと拳を下ろし、背筋を伸ばした。
「お、お邪魔してます……」
「あら、お茶飲んではったん?」
おばあちゃんはテーブルに目を向けた。
「あ、ギンがお茶飲んでけって言うから」
「あらそう」
おばあちゃんは意味ありげに目を細めた。
「昔話、少しはできはった?」
「……っ」
さっきの言葉が、不意に頭の中で蘇る。
─特別やで。
「少しできたで」
平然とした顔で、銀也が会話に割って入る。
「なっ?」
そう言って、私の顔を覗き込んだ。
かぁっと顔が熱くなる。
「あっ、おばあちゃん! 私、そろそろお暇します!」
茶の間の出入り口へ向かい、おばあちゃんの背後に逃げ込むみたいに回り込んだ。
「もう帰るの? 残念やわぁ。私もキクちゃんとお喋りしたかったのに」
「ほ、ほら! もう夕飯時だし……! お母さんも待ってると思うし!」
しどろもどろに言い訳しながら、じりじり後ずさる。
「ま、また今度喋ろう! それじゃ!」
私は逃げるように玄関に向かい、勢いよく靴を突っかけ、戸へ手を掛ける。
「キク」
背後から、不意に名前を呼ばれた。
心臓が跳ねる。
振り返ると、銀也が廊下に立っていた。
壁にもたれ、細い目でこちらを見ている。
「……なによ」
「また来ぃや」
優しい声だった。
さっきの張り詰めた空気なんて、なかったみたいに。
「ばあちゃん、キク来ると嬉しそうやし」
「……おばあちゃんが、でしょ」
「僕も嬉しいで」
さらっと言って、銀也は笑った。
「っ……!」
腹立つ。
ほんと、腹立つ。
なのに。
どうしようもなく……。
「お邪魔しました!」
私は勢いよく、玄関の戸を閉めた。
ーーーーーー
「キクちゃん、慌てて帰ってしもたねぇ」
祖母が湯呑みを片付けながら、くすくす笑う。
「相変わらず騒がしい子やなぁ」
銀也は気のない声で返した。
「でも、嬉しそうやったえ。銀也も」
「……そうやった?」
銀也は小さく笑う。
「あっ、キクが肉じゃが持ってきてくれたで。なんや、『新じゃが』のお礼や言うとったよ」
「あらそう。嬉しいわぁ」
祖母が流しで湯呑みに手を伸ばした。
「ええよ」
銀也がさっとそれを受け取る。
「洗っとくわ」
「あら、ありがとう」
祖母は銀也に湯呑みを任せ、壁に掛けてあった割烹着へ手を伸ばした。
「四年やもんなぁ」
祖母がぽつりと呟く。
その言葉に、銀也の笑みがわずかに薄れた。
「……長かったわ」
銀也は流しに視線を落としたまま、小さく呟いた。
蛇口から流れる水音だけが、静かな台所に響いていた。
