嘘つき蛇は、今日も私を離さない

ベッドに倒れ込むみたいに寝転がって、私は抱き枕をぎゅっと抱き締めた。

夕方の光が、白い天井にぼんやり滲んでいる。

頭の中では、さっきの銀也の声が何度も繰り返されていた。

──『ただの昔馴染みや』

「……っ」

胸の奥が、きゅっと縮む。

冷たいくせに、昔と同じ顔で笑うから余計にタチが悪い。

私は抱き枕へ顔を押し付けた。銀也の声を、聞こえなくするみたいに。

「……なんなの、あいつ」

すると、階下から私の名前を呼ぶお母さんの声が聞こえた。

「なにー」

起き上がって返事をするが、それでもお母さんはなおも私を呼び続ける。

私はため息をついて抱き枕を手放し、渋々下に降りた。

お母さんは台所で夕飯の支度をしていた。

「やっと来た。これ、隣の市川おばあちゃんに届けてちょうだい」

そう言って菜箸でタッパーを指した。

タッパーには肉じゃがが詰められていた。

「えぇ。なんで」

「おばあちゃんから新じゃがをもらったのよ。そのお返し」

「新じゃがならポテサラがよかったな」

「文句言うなら自分で作りなさい」

「やだよ、めんどくさい」

「も〜。つべこべ言わず、早く届けてきて!」

「はーい」

気の抜けた返事をしながら、私はタッパーを持ち上げる。

「あっ、ちゃんと新じゃがのお礼、言ってね」

「わかってるって」

お届け用の保冷バッグにタッパーを入れ、玄関に向かった。

玄関の姿見鏡に、部屋着姿の自分が映った。

さすがにこの格好はダメだ。

私は慌てて部屋へ戻り、Tシャツとジーパンに着替えた。

『市川』

その苗字が頭をよぎった瞬間、胸の奥が落ち着かなくなった。

……いるわけない。

4年間、帰ってこなかった男だ。

自分にそう言い聞かせながら、私は市川のおばあちゃん家へ向かった。

***

市川のおばあちゃん家は、うちの隣だ。

小さい頃から何度も遊びに来た家だから、今さらインターホンを押すのも変な感じがする。

でも、なんとなくインターホンを押してしまう。礼儀として。

インターホンを押すと、聞き覚えのあるメロディーが家の中に響いた。

いつもなら「はーい」と言って、おばあちゃんは戸を開けてくれるのに、今日はなかなか出てこない。

留守かな?

引き戸に手をかけてみるとすんなりと開いた。

「あれ?」

私は不思議に思いながら、そっと家の中を覗き込んだ。

「おばあちゃーん?」

返事はない。

……寝てるのかな。

家の中はしん、と静まり返ってた。
銀也がいた頃から出入りしていた家だけど、家主がいないとやっぱり勝手に入るのをためらってしまう。

少し迷ってから、私は恐る恐る、家の中へ足を踏み入れた。

「……お邪魔します」

「はーい。今行きますー」

階段の上から、聞き慣れた声が返ってきた。

その瞬間、呼吸が詰まる。

ギシ、と階段が軋んだ。

ゆっくり降りてきたのは、白いカッターシャツ姿の銀也だった。

袖を無造作にまくった腕が、やけに目に入る。

「誰かと思たらキクか。いらっしゃい」

何事もなかったみたいに、銀也は笑った。

「っ……」

喉がひゅっと鳴る。
一歩、反射的に後ずさった。

「なんやその反応」

「いやいやいや!? なんでいんの!?」

声が裏返る。

「なんでって、ここ、僕のばあちゃん家やけど」

「それはそうなんだけど!」

違う、そうじゃない。

言いたいことが頭の中で渋滞して、うまく言葉にならない。

なんで今なの。
なんでここなの。
なんで、そんな顔で笑えるの。

視線が定まらないまま銀也を見ていると、彼はくすっと笑った。

「そんな驚かんでもええやん。狐につままれたみたいやな」

「驚くでしょ普通に……!」

思わず声が強くなる。

「いなくなってた人が、急にここにいるんだから……!」

銀也は少しだけ目を細めた。

「まぁ、そらそうか」

軽い声だった。

私は唇を噛んだ。

「言うタイミング逃しててん。悪いな」

「……ほんとにね」

小さく吐き出す。

銀也は一瞬だけ笑って、またいつもの調子に戻る。

「で、何しにきたん?」

「これ、お母さんがおばあちゃんにって」

私は手にしていた保冷バッグを差し出す。

「肉じゃが。新じゃがのお礼だってさ」

銀也はタッパーを受け取ると、ふっと目を細めた。

「おばちゃんの肉じゃが? 懐かしいなぁ……」

その顔が少しだけ嬉しそうで、胸の奥がざわつく。

「ほな、ありがたくいただくわ、おーきに」

その声音はやけに柔らかかった。
昔、うちの食卓でご飯を食べていた時と同じ声。

「……それじゃ」

私は逃げるみたいに踵を返す。

すると。

「なんや、もう帰ってしまうん?」

背中に、のんびりした声が飛んできた。

私は足を止めて振り返る。

「私は『ただの昔馴染み』だから、おばあちゃんがいないなら、もう帰る」

自分でも驚くくらい、拗ねた声だった。

銀也はきょとんとしたあと、小さく吹き出した。

「なんや、さっきのこと、根に持ってるん?」

「別に」

即答して、そっぽを向く。

銀也は「ふぅん」とおかしそうに笑う。

「その顔で?」

「うるさい」

図星すぎてムカつく。

「まぁ待ちぃな」

銀也は私を呼び止めた。

「ばあちゃん、近所の人と立ち話しに行っとるだけやし。もうすぐ帰ってくる思うで」

私は黙ったまま、玄関に立ち尽くした。

銀也はそんな私を見ながら、ふっと目を細める。

「せっかくやし、お茶くらい飲んでいき」

「……いや、お母さんが家で──」

「それに」

銀也は私の言葉を遮って、首を傾げた。

「聞きたいこと、色々あるんちゃうん?」

細められた目が、まっすぐ私を見る。

胸の奥に押し込めていた言葉たちを、見透かされた気がした。

「……わかったわよ」

渋々そう答えると、銀也は満足そうに微笑んだ。

「ほんま、顔に出る子やなぁ」

「うっさい!」

そう言い返した瞬間。

銀也の手が、ふっと私の頭に触れかけた。

──でも。
我に返ったみたいに、手を引っ込めた。

「……ほな、上がり」

何事もなかったみたいな声だった。
小さい頃、不貞腐れた私の頭を、銀也はよくぽんぽんと撫でていた。

そんな記憶が、不意に胸を掠めた。