「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから

 「っ……!!」

 歌弥はビクッと肩を跳ね上がらせながらさらに身を小さく丸めた。
 来る。見損なったという言葉が。冷ややかな怒りの声が。
 ギュッと目を閉じ、両腕で自分の頭を庇うように抱え込む。どんな罵声でも受け入れるしかない。自分には、それに抗弁する権利など最初から与えられていないのだから。

 床を強く踏みしめる足音が、急速にこちらへ近づいてくる。
 そして、歌弥のすぐ傍らでピタリと止まった。
 歌弥は息を詰め、全身の筋肉を硬直させて、次の瞬間に降ってくるであろう冷たい言葉を待った。

 しかし、鼓膜を打ったのは怒声ではなかった。

 ズズッ、という、金属が床を擦る重い摩擦音だった。

 ——なんだ……?

 想定していた言葉が飛んでこないことと、全く予想していなかった音が聞こえてきたことを不思議に思った歌弥は、恐るおそる、涙でかすむ目を細く開けて様子を窺った。

 「は……?」

 歌弥の視界に飛び込んできたのは、高くそびえ立っていたはずの重厚なマイクスタンドを、美都が躊躇うことなく床の高さまで乱暴に引き下げている光景だった。
 数百万はくだらないであろう、ドイツ製の最高級コンデンサーマイク。ほんのわずかな衝撃や湿気すら嫌うそのデリケートな機材を、美都は一切の躊躇なく、床に這いつくばって過呼吸を起こしている歌弥の口元の高さに合わせて、強引にセッティングし直していた。

 カチャリ、と関節部分のネジが締めなおされる。

 マイクの銀色のメッシュのすぐ下、黒いケーブルの接続部にある小さなインジケーターが赤色に点灯しているのが見えた。
 それが意味するものはつまり————マイクは、録音状態だということ。

 ブースへ入る前、コントロールルームを出る前に、美都がすでにレコーディングのスイッチを入れていたのだ。

 「えっ……?」

 混乱の極みに達した歌弥の喉から、ひび割れたような微かな疑問符が漏れる。
 なぜ。どうしてマイクを片付けないのか。なぜ、歌えない自分の口元に、わざわざマイクを近づけているのか。

 「はっ……、ぁ、はあ……っ」

 過呼吸の苦しさに喘ぎながら歌弥はゆっくりと首を巡らせ、すぐ傍らに片膝をついている美都の顔を見上げた。
 そこで歌弥は、自分の予想が根本から覆されていたことに気づかされた。

 美都の顔には失望の色など微塵も浮かんでいなかった。

 怒りも、落胆も、軽蔑も、そこにはない。

 あるのはただ強烈なまでの歓喜と底なしの恍惚だった。
 美都の白く端正な頬は、まるで極上の美酒を煽ったかのように微かに熱を帯びて上気している。普段は退廃的で冷めた色の濃い漆黒の瞳は、今は不気味なほどに大きく見開かれ、床でのたうち回る歌弥の姿を一瞬の瞬きすら惜しむように貪り見ていた。
 美都の長い指先が、マイクのケーブルを愛おしそうに撫でる。
 その耳は、マイクを通してコントロールルームのシステムへと送られ、ヘッドホンを通して再び彼自身の鼓膜へと還ってくる音のすべてに、全神経を集中させていた。

 「っ……、ひゅっ、あ、あぁ……っ」

 歌弥の口から、制御不能な怯えた吐息が漏れる。
 涙で鼻が詰まり、ズズッと不格好に鼻をすする音。酸素を求めて喉がヒューヒューと悲鳴を上げる音。恐怖でガチガチと鳴る歯の根の音。そして、しゃくり上げるような湿った泣き声。
 それらはすべて、音楽とは対極にあるような、ただの不快で無様な雑音であるはずだった。
 しかし美都はまるでそれが世界で最も美しい交響曲であるかのようにうっとりと目を細め、微かに口元を綻ばせているのだ。

 「あ、んた……なにを……」

 過呼吸の狭間で、歌弥は震える声で絞り出した。
 狂っている。
 この男は、あきらかに常軌を逸している。
 普通のプロデューサーなら、普通の人間なら、こんな無様な姿を見せられたら舌打ちをして機材の電源を落とすはずだ。それなのに響谷美都という男は、この無様で惨めな自分のすべてを最高級のマイクを通して克明に記録し、それを聴いて悦に浸っている。

 「素晴らしい」

 美都の口から溜息のように甘い声が漏れた。
 彼は片膝をついたままゆっくりと歌弥の顔へと自身の顔を近づけてくる。
 マイクの金属的な冷たさとは対照的な、生き物特有のむせ返るような熱気が歌弥の肌に迫ってきた。

 「素晴らしいよ、歌弥。お前のその掠れた呼吸音、恐怖に震える喉の鳴り、涙で湿った粘膜の震え。そのすべてが、たまらなく美しい」
 「ちが、う……こんなの、歌じゃ……っ」
 「俺は『完璧に歌え』なんて一言も言ってない。俺が求めているのは綺麗に整えられた退屈なメロディじゃない。そんなものはそこらのボーカルソフトにでもやらせておけばいい」
 「でも、それじゃ……っ」

 では自分に何を求めているのか。美都は歌弥が聞きたいことを的確に理解し、歌弥が言い切る前に言葉を重ねた。

 「俺が欲しいのは、今目の前で剥き出しになっている、その生々しくて痛々しいお前の命の震えそのものだ」

 美都の長い前髪が、床に倒れ伏す歌弥の額にさらりと触れる。
 香水の甘くスパイシーな香りと彼自身の濃密な体臭が混ざり合い、歌弥の嗅覚を容赦なく麻痺させていく。
 美都の手が、ゆっくりと歌弥の頬に添えられた。
 指の腹が涙で濡れた肌を優しく撫で、火傷しそうなほどの熱を持って雫を拭い去る。
 その感触のあまりの優しさと、そこに含まれる異様なまでの執着の重さに、歌弥の背筋にゾクゾクとするような悪寒と甘い痺れが同時に駆け抜けた。

 「歌えなくてもいい。お前が発するすべての音が、俺を狂わせるんだから」

 すぐ耳元で脳髄を直接溶かすような低く熱い声が囁かれた。
 それは、過去の呪いを完全に無効化する、新たな呪縛の言葉だった。
 完璧でなければ見捨てられるという強迫観念で縛り付けられていた歌弥の首輪を、美都は「壊れたままでいい、その無様さこそが至高だ」という、さらに強固で逃れがたい鎖へと付け替えたのだ。

 「あ……ぅ、あぁぁ……っ!」

 歌弥の口から、ついに限界を超えたような大きな嗚咽が漏れた。

 それを合図にするかのように、美都の強い腕が床にうずくまる歌弥の身体を抱え起こした。
 首の裏に腕が差し込まれ、もう片方の腕が腰をしっかりとホールドする。逃げることなど到底不可能な強靭で重い拘束。
 美都はそのまま自分自身の胸の中に歌弥を深く引きずり込み、まるで貴重な宝物を外敵から隠すように、強く、強く抱きしめた。

 「ひっ、は、あぁ……っ、やめ……っ」

 過呼吸で引き起こされている息苦しさと、美都から伝わってくる異常なほどの熱量にパニックを起こし、歌弥は美都の広い胸を両手で押し返そうとした。しかし美都の腕はびくともしない。むしろ歌弥がもがけばもがくほど、その拘束はより深く、より甘く、身体に食い込んでくる。

 「もがけ。泣け。もっと俺の腕の中で怯えて啼いてみせろ。その震えのすべてを、このマイクが余すところなく拾ってくれる」

 美都の唇が歌弥の耳たぶを微かに掠めながら囁く。
 その言葉の通り二人がもつれ合うすぐ傍らでは、低くセッティングされたマイクが、歌弥の悲鳴のような呼吸も、美都の服が擦れる音も、二人の身体が密着する微かな水音さえも冷徹に、そして極めて鮮明に記録し続けていた。

 「あっ、ぁあ……っ、うぅ……っ!」

 美都の言葉に導かれるように、歌弥は身をよじることも抵抗することもやめ、ただただマイクの前に顔を向けたまま、幼児のように泣きじゃくり続けた。
 過呼吸の症状は、美都の力強い抱擁と規則的な心音に触れているうちに、少しずつ、だが確実に和らいでいった。酸素が少しずつ脳に行き渡り始め、真っ白だった視界に少しずつ色彩が戻ってくる。
 だが、涙だけはどうしても止まらなかった。
 こんなにも異常な状況で、こんなにも狂気的な男に抱きしめられ、自分の最も惨めな姿を録音されているというのに、歌弥の胸の奥底には、今まで感じたことのないような深く静かな安堵感が広がっていたのだ。

 ——見捨てられなかった

 歌えなくても、こんなに無様な姿を晒しても、この男は自分を手放さなかった。それどころか自分の抱える絶望や欠落そのものを、狂おしいほどの熱量で全肯定してくれている。
 過去関わってきた人間たちからは決して得られなかった、歪だが混じり気のない絶対的な受容。
 それが、どれほど異常な執着に根ざしたものであろうと、今の歌弥にとっては、干からびた喉に注ぎ込まれる致死量の甘い毒薬だった。

 ——ああ……おれは、この人に全部見られて、ぜんぶ許されてる……

 それならば、もう隠す必要などない。完璧な自分を演じる必要も、期待に応えられないと怯える必要もない。

 「ふ、あ……っ、んん……」

 涙で濡れた唇から、無意識のうちに微かなハミングのようなものが漏れた。
 それはまだ明確な音階を持たないただの吐息の延長に過ぎなかったが、あきらかに先ほどの恐怖による過呼吸とは違う、歌弥自身の意志を帯びた音だった。
 そしてその微細な変化を美都の鋭い耳が逃すはずもなかった。

 「……!あぁ……っ、なんて音だ……」

 美都の喉の奥から、歓喜に打ち震えるような低い唸り声が漏れる。そのまま彼は歌弥の後頭部に手を回し、その髪に深く指を絡ませた。
 まるで迷子の子供をあやすかのような、ゆったりとした、愛情に満ちたストローク。しかしその一方で、彼の身体は歌弥を完全に支配し、その一挙手一投足、吐き出す一息のすべてを自身の管理下に置こうとする強烈なエゴイズムに満ちていた。

 美都は歌弥の顎に指を添え、ぐっと自分の方へと振り向かせた。
 涙で濡れた歌弥の顔が、美都の端正な顔立ちと至近距離で見つめ合う。
 美都の漆黒の瞳は、燃え盛るような狂気的な愛と、天才クリエイターとしての冷徹な計算が完全に融合した、恐ろしいほどの輝きを放っていた。

 「今のお前の音……最高だ。もう一度出してみろ。いや、出さなくてもいい。俺が引き出してやる」
 「え……っ、んぅっ!?」

 言葉が終わるか終わらないかのうちに、美都の唇が、歌弥の震える唇を強引に塞いだ。
 それは慰めのキスなどではない。
 歌弥の内側に眠っている「音」を物理的にこじ開け強奪しようとするかのような、深く、熱く、そして容赦のない接触だった。

 「ん……っ!ふ、ぁ……っ!」

 突然のことに驚き、歌弥の喉から甘い悲鳴が漏れる。
 美都はその悲鳴すらも逃さず、マイクが最もよく音を拾う角度を計算しながら、歌弥の身体の向きを絶妙にコントロールしていた。
 唇が離れた瞬間、銀色の糸が引き、歌弥は肺に新鮮な空気を求めて大きく息を吸い込んだ。

 「はっ……!は、ぁ……っ」
 「いい息遣いだ。その乱れた呼吸を、マイクにぶつけろ」

 美都は悪魔のように甘く囁きながら、今度は歌弥の首筋に唇を這わせ、かつてのトラウマが刻み込まれている喉仏のあたりに、熱い吐息とともに微かな噛み跡を残した。

 「あっ!や、ぁ……っ」

 古傷を撫で回されるような感覚と、未知の快感に脳が揺さぶられ、歌弥の口から再び艶を帯びた悲鳴がこぼれ落ちる。

 「そう、それだ。お前の声帯が震えるたびに、世界で一番美しいノイズが生まれる」

 密室の防音ブースの中で常軌を逸した「声のレッスン」が本格的に幕を開けた。

 それは発声練習でもなければ、ピッチの矯正でもない。
 響谷美都という天才が、一瀬歌弥という壊れた楽器を自らの手で愛撫し解体し、その傷口から直接最高の音色を引きずり出すための果てしなく歪で、そして狂おしいほどに甘い儀式だった。

 歌弥はもう、美都の腕の中から逃げ出す気力を完全に失っていた。
 むしろ、美都が自分に与えてくれるこの容赦のない熱量と執着の渦の中に、自ら進んで深く沈んでいくことを望み始めていた。

 マイクの録音ランプの赤い光だけが、暗いブースの中で、二人の交わりを静かに見つめ続けている。
 かつて多くの人間を魅了し、そして彼自身を破滅へと追いやった「奇跡のボーカル」は今、たった一人の天才の狂気的な愛情によってまったく新しい、誰にも真似できない魂の旋律を紡ぎ出そうとしていた。

 外の世界の雑音が一切届かないこの絶対的な城の中で、絶望の啼き声は、やがて極上の音楽へと調律されていく。