「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから

 歌弥は震える手をゆっくりと伸ばし、冷たいマイクスタンドに触れた。その金属の冷ややかな感触が掌に伝わった瞬間。

 『お前、何やってんだよ!!』

 脳の奥底で、あの日の忌まわしい声が、黒い泥のようにぶわりと噴き出した。

 それは、決して開けてはならないと固く封印していたはずの、地獄の蓋が開く音だった。
 防音ブースの穏やかな薄明かりが、一瞬にして眩い閃光へと反転する。
 網膜を白く焼き尽くすような眩しいステージのスポットライト。むせ返るような群衆の熱気に、ヘアスプレーや香水、機材の焼ける匂いが入り混じった空気。自分が決定的に音を外した瞬間、鼓膜を劈くような大歓声がさぁっと波が引くように消え去ったあの恐ろしいほどの静寂。
 何百という見知らぬ人々の、期待から戸惑いへ、そして落胆と嘲笑へ変わっていく視線の雨。
 そのすべての中央で、喉を焼き切られるような激痛に耐えながら立ち尽くす自分の背中に突き刺さった、元バンドメンバーの底冷えのするような憎悪の視線。

 『俺たちの人生を潰す気か?!』

 その言葉は、当時の歌弥が抱えていた「期待に応えなければならない」という強迫観念を粉々に打ち砕き、「一瀬歌弥」という人間の存在価値そのものを根底から否定する呪いだった。音楽という形のない神格にすべてを捧げてきた少年が、ただの「壊れて使い物にならなくなった便利な道具」へと成り下がった瞬間だった。

 「あ……、あぁっ……」

 乾いた唇の隙間から無意味な呼気が漏れる。
 声を出そうとした喉が、いや、首から上のすべての筋肉が、この場の全てに対して拒絶反応を示して石のように硬直していく。
 首の周囲の筋肉が防衛本能によって収縮し、声帯を無慈悲に締め上げる。まるで目に見えない太いロープで首を絞められているかのような、強烈な圧迫感。息を吸い込もうとしても、気道が極端に狭まっており、ひゅっ、という情けない摩擦音しか口から漏れ出ない。

 マイクスタンドを握りしめた右手の指先から急速に血の気が引いていくのがわかった。冷たい金属の感触が、まるで毒蛇のように腕を這い上がり、肩を伝って心臓を鷲掴みにする。
 防音ブースの空気は適温に保たれているはずなのに、歌弥の皮膚は極寒の雪原に放り出されたように粟立ち、冷や汗がどっと額に噴き出していた。

 視界がぐにゃりと歪む。過去の亡霊がブースの薄暗い吸音材の壁一面にへばりつき、一斉にこちらを見下ろして嗤っているような錯覚に陥った。視界の端からじわじわと黒いノイズが侵食し、平衡感覚が狂い始める。

 ——逃げなきゃ

 この場所から逃げ出してしまわなければ。またあの日と同じように自分の全てを否定され、空っぽの抜け殻にされて捨てられてしまう。
 しかし硬直した足は床に縫い付けられたように一歩も動かない。逃げ出そうとする本能を、それ以上に強烈な別の引力が引き留めていた。

 歌弥は痙攣しそうになる首をぎこちなく動かし、分厚い防音ガラスの向こう側へと視線を向ける。その先にはコントロールルームの薄明かりの中、巨大なミキシングコンソールの前に座る美都の姿があった。
 美都はヘッドホンを首にかけ、前のめりになるような姿勢で、ガラス越しの歌弥を真っ直ぐに見つめていた。その漆黒の瞳の奥には、ドロドロに煮詰まったような熱量と圧倒的なまでの「期待」が渦巻いている。
 自分が作り上げた極上のトラックに最後に欠けているピースがはめ込まれる瞬間を待ちわびる、創造主の顔だった。

 彼が求めているのは歌弥の奏でる音だ。彼が探し求めていた、この曲を完成させるためのたったひとつの声。
 その純粋で強烈な眼差しは美都にとっては偽りない情熱であり、愛に似た執着の表れであった。しかしトラウマという分厚いフィルターを通してその眼差しを受け止めた歌弥の脳は、それをあの日と同じような逃れられない重圧として誤認してしまったのだ。

 『完璧に歌え』
 『期待を裏切るな』
 『俺の音楽を完成させろ』

 美都は一言も発していないにも関わらず、ガラス越しのその熱を帯びた瞳が過去の呪いと合致し、無数の幻聴となって歌弥の鼓膜を激しく打ち据える。

 ——ああ、また。おれはまた誰かの人生の重みを背負わされるのか……

 もしここで、あの日と同じように声が裏返ってしまったら。この完璧で美しいトラックに、醜いノイズを撒き散らしてしまったら。
 この天才は、どんな顔をするのだろう。
 あの元メンバーと同じように、凍りつくような冷酷な瞳で自分を見下し、「お前にはもう価値がない」と吐き捨てるのだろうか。
 その想像が脳裏をよぎった瞬間、歌弥の身体を制御していた最後の理性の糸が、プツリと音を立てて断ち切られた。

 「ひっ……、ひゅぅ……っ、は、あ……っ」

 過呼吸が始まった。
 肩を大きく上下させ、浅く短い呼吸を何度も繰り返すが、酸素はまったく脳に供給されない。手足の指先から血の気が引き、痺れが走る。
 恐怖が中枢神経を完全に支配し、自律神経が暴走を始める。
 心臓が、肋骨を内側から叩き割るのではないかと思うほどの異常な速度と強さで打ち始めた。ドクン、ドクン、ドクン、という耳障りな血流の音が、頭蓋骨の中で反響する。

 「あ……っ、ぁ、はあ……っ!」

 口を大きく開けて宙をパクパクと金魚のように彷徨わせるが、入ってくるのは細く掠れたヒューヒューという摩擦音だけだった。
 立っていることすらままならなくなり、マイクスタンドを握っていた手が力なく滑り落ちた。
 ガタン、と鈍い音を立てて、スタンドがわずかに揺れる。
 歌弥の身体は、糸を切られた操り人形のようにその場に崩れ落ちた。

 「っ、あ……ぁ……っ」

 膝が冷たい床板に打ち付けられる鈍い音が、静寂に包まれた防音ブース内に空しく響く。
 歌弥は両手で自身の首を掻き毟るように押さえながら、丸くうずくまった。目からは大粒の涙がとめどなく溢れ出し、ポタポタと床を濡らしていく。

 ——息ができない。くるしい、喉が、さけてしまいそう……

 だが肉体的な苦痛よりも何よりも歌弥の心をずたずたに引き裂いていたのは、抗いようのない絶望だった。

 また、ダメだった。

 この男の音楽に触れて、もしかしたら自分はもう一度、声を出せるのではないかという、身の程知らずな希望を抱いてしまった。美都は自分のためにわざわざ完成された曲のキーを下げ、テンポを落とし、不完全な自分の声が最も美しく響かせられるようにと極上の居場所を用意してくれたのに。

 その優しさに、彼の持つ執着に、応えたかった。
 この美しいトラックの中に自分の声を溶け込ませ、彼とひとつの音楽を作り上げたかった。
 なのに自分の身体は、恐怖の前にこんなにもあっさりと白旗を上げてしまったのだ。

 ——ごめ、なさい……

 声にならない謝罪が、止めどなく溢れる涙とともに床へと落ちていく。
 両目から溢れ出した熱い雫が視界をぐしゃぐしゃに歪ませる。

 ——おれはやっぱり壊れてるんだ。もう、ただのガラクタだ……

 美都が求めているようなものなど、今の歌弥には残っていない。
 見捨てられる。そう思った。
 今度こそ他の思考が入り込む余地のないほど呆れられ、この城から冷酷に追い出されてしまう。
 その恐怖がさらなる過呼吸を誘発し、歌弥の細い背中は、しゃくり上げるような激しい痙攣を繰り返していた。

 その時だった。

 ガチャン、と。
 背後で分厚い防音扉が開く重い金属音が響いた。
 コントロールルームとブースを隔てる扉が開かれたのだ。