「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから

 あの渡り廊下での出来事から数日が経過しても、歌弥の耳の奥には美都のヘッドホンから流れてきたあの重厚なトラックの低音がこびりついて離れなかった。

 講義を受けている時も、薄暗い下宿先のベッドで毛布に包まっている時も、ふとした瞬間にあの冷たくて美しい旋律が脳裏をよぎる。それは致死性のウイルスのように歌弥の思考を侵食し、彼の内側で眠っていた音楽への飢餓感を否応なしに刺激し続けていた。

 ——歌えない。歌ってはいけない。もし飲まれたら……

 あの男の音楽に飲まれてしまったら、今度こそ自分は壊れてしまう。

 頭ではそう警鐘を鳴らし続けているのに、あの「ボーカルだけがぽっかりと抜け落ちた完璧な空白」が、自分という存在がすっぽりと収まるための棺のように思えて、どうしようもなく惹きつけられている自分がいた。

 その日はどんよりとした分厚い雲が空を覆い、夕方前から冷たい雨が降り始めていた。
 傘を持っていなかった歌弥がキャンパスの正門の軒下で雨宿りをしながらどうやって帰ろうかと思案していた時のことだ。

 滑るようにして一台の黒い輸入車が目の前に横付けされた。
 後部座席のドアが内側から開き、「乗れ」と短い命令が下る。薄暗い車内からこちらを見つめる美都の漆黒の瞳には、有無を言わせぬ絶対的な圧があった。
 周囲の学生たちが、高級車とそれに乗る学内の有名人の姿に気づき、ひそひそと囁き交わし始める。その好奇の視線に耐えきれなくなった歌弥は、逃げ込むようにして車に乗り込んでしまった。それが、捕食者の口の中に自ら飛び込む行為であるとわかっていながら。

 車内は、外の雨音すらほとんど聞こえないほど完璧に遮音されていた。
 上質なレザーシートに沈み込みながら、歌弥は隣に座る美都の放つ圧倒的なプレッシャーに身を縮めていた。美都は行き先を告げることもなく、ただ沈黙したまま窓の外の流れる景色を眺めている。車内に漂うのは、渡り廊下で至近距離まで詰め寄られた時に嗅いだ、あの甘くスパイシーな香水の匂いだった。
 逃げ出したいという恐怖と、これからどこへ連れて行かれるのかという諦念が入り混じり、歌弥はただ震える両手を膝の上で固く握りしめていることしかできなかった。

 車が滑り込んだのは、都心の一等地に建つ、セキュリティの厳重な高級マンションの地下駐車場だった。
 無言のまま美都の背中についていき、専用のカードキーで開くエレベーターに乗り込む。最上階のボタンが押され、浮遊感とともに静かに上昇していく間も、二人の間には張り詰めた沈黙が落ちていた。

 「入れ」

 短く促され、歌弥は躊躇いながらも一歩を踏み出す。
 扉を開けた瞬間に歌弥の肌を撫でたのは、徹底的に温度と湿度が管理された無菌室のような空気だった。しかしそこにはあきらかに「響谷美都」という一個の人間が棲みついている「生活の匂い」が濃厚に混ざり合っていた。
 仄かに香るブラックコーヒーの苦味、開かれたままの洋書の紙の匂い、そして美都の体臭と混ざり合ったあのスパイシーな香水。それらが複雑に絡み合い、この空間の絶対的な支配者が誰であるかを、視覚よりも先に嗅覚へと叩き込んでくる。

 広々としたリビングの先にある、分厚い防音扉。美都がその扉の重いハンドルを両手で押し下げ、ゆっくりと開け放つ。
 そこが、天才トラックメイカー・響谷美都の心臓部であり、彼がすべての魔法を紡ぎ出す城だった。

 「……っ!」

 一歩足を踏み入れた瞬間、歌弥は鼓膜に異様な圧迫感を感じて思わず息を呑んだ。
 床から天井に至るまで、部屋全体が極めて高度な音響計算に基づいた吸音材と音響拡散板で覆われている。床自体が建物から独立して浮いている浮き床構造になっているようだ。外部からの振動や雑音をミリ単位で排除する、文字通りの「完全な密室」だった。

 大学の旧サークル棟にあったあのカビ臭い第三防音室とは次元が違う。あの場所を歌弥が外界かた身を隠し逃げ込むための惨めな隠れ家だとするならば、ここは音の神を降臨させるためだけに造られた豪奢な神殿といえるだろう。

 壁一面に埋め込まれた巨大なスタジオモニター、アナログの質感を残すための無数のアウトボード群、暗がりの空間で無機質に点滅を繰り返すLEDの光。それらすべてが、部屋の中央に鎮座する巨大なコンソールデスクへと向かって収束している。

 そして、その奥。

 分厚いガラス窓で仕切られた、さらに独立した小さな空間。ボーカルを録音するためだけのブースが、暗がりの中で異様な存在感を放ってそこにあった。
 ブースの中央には、鈍い銀色の光を放つハイエンドなコンデンサーマイクが、まるで生贄を待ち構える祭壇のように静かにそびえ立っている。
 そのマイクを見た瞬間、歌弥の心臓がビクリと跳ね上がり、喉の奥がカラカラに乾いていくのを感じた。

 「そこに座ってろ」

 美都に背中を軽く押され、歌弥はコンソールデスクの後ろに置かれた、深い黒のレザーソファに力なく腰を下ろした。
 美都は歌弥の隣には座らず、コンソールデスクの主の椅子へと腰を下ろすと、慣れた手つきでシステムを立ち上げ始めた。
 カチ、カチ、というマウスのクリック音と、キーボードを叩く音だけが、耳鳴りがするほどの絶対的な無音空間に響き渡る。

 歌弥はソファの上で膝を抱え、まるで処刑を待つ罪人のように身体を固くしていた。逃げ出したい。今すぐこの扉を開けて、雑音にまみれた外の世界へ逃げ帰りたい。ここには音楽という自分を壊した劇薬が、最も純度の高い状態で存在しているのだから。

 しかしソファのレザーに染み込んだ美都の匂いが、歌弥の身体を呪縛のように縛り付けて離さなかった。

 「渡り廊下で聴かせたトラック、忘れてないよな?」

 背を向けたまま、美都が低く落ち着いた声で口を開いた。

 ——忘れられるわけがない

 無理やりヘッドホンを付けられてあのトラックを聞かされた日から、歌弥はあの音に囚われているのだから。

 「……」

 返す言葉も見つからないままに歌弥が青ざめ顔で唇を引き結んで黙っていると、美都が振り返ってその漆黒の瞳で歌弥を真っすぐに射抜いた。
 彼の表情は、構内で追いかけまわしてきたときのようなストーカーじみた威圧的なものではなく、純粋に音の深淵を覗き込む芸術家のそれだった。

 「お前のために、少しだけキーとアレンジをいじったんだ」
 「お、おれの……ために……?」

 掠れた声が静寂が支配する空間にポツリと落ちる。

 「そうだ」

 美都は再びコンソールに身体を向け、キーボードを叩きだした。

 「俺の頭の中にあるこの曲のパズルは、あと一つきれいなピースがハマれば完成する。だが、その最後のピースがどうしても見つからなかった。どんなに上手いボーカリストを呼んでも、どんなに完璧にピッチを合わせても、曲が息をしない。諦めてたんだ。……お前の、あの震えるようなハミングを聴くまでは」

 美都の指が、キーボードのスペースキーを叩く。
 次の瞬間、要塞のようなスタジオの巨大なモニターから、圧倒的な音圧の波が放たれた。

 ドォン、と心臓の裏側を直接蹴り上げられるような、深く、重いキックの音。
 渡り廊下のヘッドホンで聴いた時とは、次元が違った。鼓膜で聴いているのではない。床を伝わり、空気を震わせ、歌弥の骨と内臓を直接共鳴させてくる、物理的なエネルギーを持った音の奔流。
 その重低音の波の上を、氷の粒のように冷たく繊細なシンセサイザーのメロディが、美しく、悲劇的に舞い踊る。

 ——あ……、あぁ……っ

 全身の産毛が総毛立つのが分かる。歌弥はソファの上で膝を抱えたまま大きく目を見開いて息を呑んだ。
 アレンジが、変わっている。
 数日前に聴いた時よりも、全体的なキーがわずかに下げられ、テンポも人間の絶望的な心拍数に寄り添うように、ほんの少しだけ遅くなっていた。

 それはあきらかに今の歌弥が発することのできる「不完全で低い音域」に合わせて、美都が一から再構築したものだった。

 かつて「奇跡のボーカル」と称されていた時に武器にしていた高音域ではなく、声が出なくなり、這いずり回るように零した、あの防音室での「掠れたハミング」の帯域。
 自分が最も惨めだと思っていたその弱点を、美都は「至高の音色」として完全に肯定し、その声が最も美しく響くための極上の玉座を、わざわざ作り直したのだ。


 かつての「奇跡のボーカル」だった高音域に合わせるのではなく、声が出なくなり、這いずり回るようにして零していた、あの日の防音室での「掠れたハミング」の帯域。
 自分が最も惨めだと思っていたその弱点を、美都は「至高の音色」として完全に肯定し、その声が最も美しく響くための極上の玉座を、わざわざ作り直したのだ。

 曲が進行し、ボーカルが入るべき空白の帯域がやってくる。
 そこには恐ろしいほどの飢餓感があった。

 『ここに入ってこい』
 『お前の悲鳴で、この曲を満たしてくれ』

 言語を持たない旋律が、何百の手となって歌弥の身体に絡みつき、その魂を強引に引きずり出そうとする。
 美しすぎる。そして、あまりにも残酷だ。
 こんなにも完璧に自分のためだけに用意された音楽を前にして、どうして心を動かされずにいられるだろうか。
 音楽を愛し、音楽に裏切られ、それでもなお音楽を捨てきれなかった歌弥の心の最も柔らかい部分を、美都のトラックは正確に抉り出していた。

 ——逃げてしまいたい

 歌弥の目から、ボロボロと止めどなく涙が溢れ出した。
 怖い。恐ろしい。これほどまでに自分という存在の深い部分まで踏み込まれ、解剖され、音として理解されてしまったことが。

 かつてのバンドメンバーや大人たちは、自分の「完璧な声」しか見ていなかった。声が出なくなれば、ただのゴミとして切り捨てた。

 しかし、この響谷美都という男は違う。
 彼は歌弥の欠落を、傷を、その不完全さを、世界で最も美しいものとして全肯定した。その傷跡にぴったりと符合する美しい揺りかごを、自分の才能のすべてを懸けて作り上げてみせたのだ。
 これは暴力的なまでの愛だった。音楽という言語で書かれた、狂気的なラブレターだ。

 音楽が鳴り続ける中、美都がゆっくりと椅子から立ち上がり、歌弥の座るソファへと歩み寄ってきた。
 美都の大きな手が涙で濡れた歌弥の頬を包み込む。ひんやりとした指先が、歌弥の震える唇をそっと撫でた。

 「お前なら、どう歌う?」

 耳元で、甘く、ねっとりとした声が囁かれた。
 それはエデンの園で禁断の果実を勧める蛇のような、抗いようのない誘惑だった。

 「……ぁ……」
 「何も恐れることはない。お前のその傷だらけの喉から出る音のすべてが、俺のトラックを完成させる最後のピースだ。さあ、俺に聴かせてみろ」

 耳殻に直接流れ込んでくるその声は、一種の催眠術だった。
 美都の長く美しい指先が歌弥の震える肩にそっと触れる。その手は、決して強引に引きずり起こそうとはしない。ただ、歌弥自身が自らの意志で立ち上がることを、絶対的な自信を持って待っているのだ。

 ここで立ち上がってしまえば、二度と引き返すことはできない。
 この男の狂気と執着に絡め取られ、一生、彼の音楽の奴隷として生きていくことになるかもしれない。
 それでも。

 ——歌いたい。おれが、この歌を……

 この瞬間に歌弥の頭を支配したのは、理性を完全に凌駕した純粋な魂の欲求だった。
 美都の手に引かれ、歌弥は糸に操られる操り人形のように、ゆっくりとソファから立ち上がった。
 足元がおぼつかない歌弥の腰を美都が強引に抱き寄せ、分厚いガラスの向こう側――ボーカルブースへと導いていく。
 ブースの重い扉が開かれる。密室の中の、さらなる密室。
 そこは完全に外界から切り離された、ただ「声を録る」ためだけの無機質な空間だ。
 中央にそびえ立つマイクスタンド。冷たい金属の輝き。黒いポップガード。
 あの日ステージの上で自分のすべてを粉砕したあの無慈悲な道具が、今、再び目の前にある。

 「……っ」

 マイクの前に立たされた瞬間に歌弥の足がガクンと震え、膝から崩れ落ちそうになった。だがそれを美都の腕がガッチリと背後から支える。

 「逃げんな。前を見ろ、歌弥。俺がいる」

 背中越しに伝わってくる美都の熱い体温と鼓動。
 ガラス越しの向こう側では巨大なモニターにDAWの波形映し出されている。
 美都は歌弥の頭にヘッドホンを被せ、自らはゆっくりと後ずさりしてブースの重い扉を閉めた。

 ガチャン、と。

 完全に隔離された空間。ヘッドホンからは、美都の作ったあの完璧なトラックが流れ続けている。
 そしてガラスの向こう側。コントロールルームの暗がりの中では、主の椅子に深く腰掛けた美都が飢えた獣のような漆黒の瞳で、マイクの前に立つ歌弥をじっと見つめていた。

 魔法にかけられたように誘導されたこの祭壇で、かつてすべてを失った「声なきミューズ」は、再びその冷たい金属に向き合うこととなった。
 逃げ場のない天才の城。その最深部に閉じ込められた歌弥の喉の奥で、恐怖と歓喜が複雑に絡み合い、悲鳴のような息遣いとなって漏れ出し始めていた。