「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから

 あの日の第三防音室での響谷美都との出会いを境に、歌弥のひっそりとした、誰の目にも留まることもなかった透明な日常は完全に崩壊した。

 気絶した歌弥が次に目を覚ましたのは、大学の保健室のベッドの上だった。隣を見ても誰もいなかったが、首筋にははっきりと、誰かが深く顔を埋めて息を吸い込んだような、微かな熱と他者の香水の匂いがへばりついていた。
 それが夢や幻覚ではなく、響谷美都という規格外の天才に見つかってしまったという恐ろしい現実であることを、歌弥の身体そのものが記憶してしまっていたのだ。

 以来、歌弥はキャンパス内で常に他人の気配に怯えながら過ごすことになった。

 彼が逃げ込める唯一の聖域だった旧サークル棟の防音室には、もう恐ろしくて近づくことができない。講義が終われば逃げるように下宿先へ帰り、なるべく人が集まる場所を避けて息を潜めるように生活していた。

 だが、そんな小手先の逃亡劇など、美都の異常なまでの執着の前では何の意味も持たなかった。

 美都の行動は、「ストーキング」と呼ぶにはあまりにも堂々としており、かつ暴力的なまでに直接的だった。

 例えば、数百人が収容できる大講堂での一般教養の講義。歌弥がいつも通り一番後ろの隅の席で身を縮めていると、唐突に隣の空席に長い脚を組みながら座る男が現れた。

 「一瀬歌弥。……ここ空いてるか?」

 歌弥がビクッと肩を震わせて横を向くと、そこには退屈そうに頬杖をつきながら、じっとこちらを見つめる美都がいた。
 鼓膜の奥がドクンと嫌な音を立てる。歌弥は息を呑み、目を見開いたまま美都を凝視した。 自ら名乗った覚えなど、一切ない。そもそもこの大学に入学して以来、歌弥は教授や大学職員以外の人との関わりを極力避け、同級生とすらまともに会話をしたことがないのだ。それなのに、美都はさも当然のように、はじめから知っていたというような口ぶりで歌弥のフルネームを口にした。

 インディーズ界隈で名を馳せ、構内でも「孤高の天才」として特別な扱いを受けている美都がなぜ、音響科の目立たない学生の隣に座っているのか。前方の席に座っていた学生たちがざわめき、振り返って好奇の視線を向けてくる。それが歌弥にとっては、過去のステージ上で浴びたあの嘲笑の視線を思い起こさせ、まさに針のむしろだった。

 美都の不可解な行動はそれだけでは終わらなかった。 またある時は、学食の隅で一人で短い昼食を済ませようとしていると、向かいの席に無言でトレイが置かれる。

 「そんなゼリー飲料だけで午後持つのか?歌弥」

 そして歌弥が何か言う前に、学食のやたらと大きい唐揚げを口に突っ込まれるのだ。

 「んぐ……っ」
 「たんと食え。じゃなきゃ、俺の曲は歌えないからな」

 「世話焼きな母親か彼女かよ」というツッコミが口から出かけて、慌てて飲み込んだ。なんせ美都はただ歌弥の「声」に執着しているだけの「世話焼きな母親か彼女」よりもよっぽどタチの悪い人間なので。

 また別の日。図書館の薄暗い書架の影で息を潜めていれば、背後の隙間から長い腕が伸びてきて、逃げ道を塞がれた。

  「こんな埃っぽいところで何してんだよ、歌弥。今日こそ俺が作ったトラックデータ聞いてもらうからな」
 「き、聞かない……!!」

 キャンパスのどこに逃げても、どれほど気配を殺しても、美都は必ず歌弥を見つけ出した。まるで歌弥の身体に発信機でも埋め込まれているかのように、正確に、そして執拗に。

 何よりも歌弥を薄気味悪くさせたのは、その呼び方だった。

 最初は「一瀬歌弥」とフルネームだったのが、数日も経たないうちに、やたらと親しげな「歌弥」という下の名前での呼び捨てに切り替わっていたのだ。まるで、何年も前から互いのすべてを知り尽くしている恋人同士であるかのような、甘く、ねっとりとした響き。

 自分の過去や身辺を、一体どこまで調べ上げているのだろうか。かつて自分が「奇跡のボーカル」と持て囃され、そして凄惨な失敗とともに表舞台から消えたあの過去を知っているからこそ、面白半分で近づいてきたのではないか。

 やたらと距離を詰め、親しげに名前を呼んでくる美都の底知れなさに、歌弥は恐怖を通り越して不気味さすら感じていた。この男を絶対に信用してはいけないと、過去の傷を抱えた防衛本能がけたたましく警鐘を鳴らし続けていた。
 歌弥は「なんでおれなんだ」と半分泣きそうになりながら逃げ続ける毎日を繰り返している。

 「なんで逃げるんだよ」

 ある日の夕暮れ。講義棟の裏手にある普段は誰も通らない薄暗い渡り廊下で、ついに歌弥は美都に追い詰められた。
 背中は冷たいコンクリートの壁。目の前には、圧倒的なプレッシャーを放つ長身の男。どこにも逃げ場は用意されていなかった。
 美都の漆黒の瞳は、苛立ちと、それ以上にドロドロとした飢餓感を煮詰めたような異様な光を放っていた。

 「にっ、逃げるに、決まってるだろ……?! あ、あんた、おかしいよ。おれのこと調べたんだか知らないけど、やたらとつきまとって、何がしたいんだ……!!?」

 歌弥は震える声で必死に抵抗した。恐怖でまた過呼吸の発作が起きそうになるのを、手のひらに己の爪を深く食い込ませることで必死に堪える。
 これ以上この男に関わってはいけない。本能がそう警鐘を鳴らし続けている。この男から漂ってくる熱量は、かつて自分を搾取し続け、壊して捨てた大人たちや元メンバーの比ではない。もしこの引力に巻き込まれてしまえば、今度こそ自分は骨の髄までしゃぶり尽くされて完全に自我を失ってしまうという確信があった。

 「別にそんな大げさに調べたわけじゃない。お前がどこの誰だとか、過去に何があったか、なんて俺にはどうでもいいことだ」
 「ならなんで……っ!!」
 「言ったはずだ。俺はお前の声が欲しい。お前以外はあり得ないと」
 「っ……。だから……っ、おれはもう歌えない! 声が出ないんだ! あんたが探してるような『奇跡のボーカル』なんて、もうどこにもいないんだよ……っ!」

 美都が放つプレッシャーに耐えきれず歌弥は声を荒らげた。怒りではなく、心の悲鳴だった。
 自分でも認めたくない惨めな現実を、他人の前で、しかも自分よりも圧倒的な才能を持つ「天才」の前で自ら口にしなければならない屈辱。目尻から滲み出そうになる涙を必死に堪えながら、歌弥は美都を睨み返した。
 だが、美都は歌弥の悲痛な叫びを気にした風もなく、むしろ酷薄なほど美しい笑みを口元に浮かべた。

 「奇跡のボーカル? そんな上辺だけの綺麗でつまらないものなんて俺は最初から求めてない。俺が欲しいのは、あの密室でお前が零していた、傷だらけで不完全なノイズだ。絶望の底で息も絶え絶えに啼いていた、お前のその剥き出しの感情そのものだ」
 「はっ……?」
 「いいから、黙ってこれを聞け」

 そう言いながら、美都は首から下げていたマットブラックのヘッドホンを外し、無造作に歌弥の頭につけた。

 「あっ、ちょっとやめっ……!」

 抵抗しようと振り上げた歌弥の両手は、美都の片手によっていとも簡単に押さえ込まれ、壁に縫い止められた。
 美都の顔が近づく。吐息がかかるほどの至近距離。長い前髪の奥でギラつく黒い瞳に射竦められ、歌弥は蛇に睨まれた蛙のように身動きが取れなくなる。

 「お前の声で、これを完成させろ」

 美都の空いた手が自身のスマートフォンの画面を操作した瞬間、ヘッドホンのイヤーパッドから、圧倒的な密度の「音」が歌弥の鼓膜へと流れ込んできた。

 ドクン、と。

 一音目を聴いた瞬間、歌弥の心臓が激しく跳ねた。
 それは、今まで歌弥が聴いてきたどんな音楽とも違う、異次元のクオリティを持ったトラックだった。
 深海のように重く、どこまでも沈み込んでいくようなサブベースの低音。その上を、まるで氷の結晶が砕け散るかのような繊細で冷たいシンセサイザーの旋律が滑っていく。複雑に組み合わされたビートは、人間の心拍数とシンクロするように計算し尽くされており、聴く者の神経を直接撫で回すような凶悪な中毒性を持っていた。

 ——なに、これ……

 歌弥は壁に縫い止められたまま、完全に音の世界へと引きずり込まれていた。
 恐ろしいほどに研ぎ澄まされた完璧で美しい旋律。響谷美都という男の脳内にある狂気的なまでの美意識が、音という物理現象になって直接脳内に叩き込まれてくる。大学に入ってから数々の学生の優秀な作品を聴いてきた歌弥だったが、次元が違った。これはただの学生の遊びではない。世界を狂わせる力を持った、本物の「芸術」だった。

 だが、歌弥の心を何よりも激しく揺さぶったのは、その完璧なトラックの中に意図的に残された「空白」だった。
 これほど緻密に作り込まれた音のタペストリーの中で、中音域から高音域にかけての、ボーカルが入るべき帯域だけが、ぽっかりと、不自然なほど綺麗に空けられていたのだ。

 それはまるで、主のいない立派な玉座のようだった。

 あるいは、一人の人間を永遠に閉じ込めるために作られた、美しい鳥籠のようにも感じられた。

 『お前の声で、これを完成させろ』

 先ほど投げかけられた美都の言葉が、トラックの重低音に混ざって脳内で反響する。
 この完璧な世界は、未完成だ。
 そして、この空白の玉座に座ることができるのは、世界でただ一人。自分のあの掠れた、傷だらけの声だけだ。
 美都が創り出した音楽は、一切の言語を介さずにそう強烈に訴えかけてきていた。他の誰かが綺麗に歌い上げても、この曲は完成しない。絶望を知り、恐怖を知り、それでも音を紡ごうと暗闇でもがく人間の、あの不完全なノイズだけが、この冷たく美しい旋律に血を通わせることができるのだと。

 ——うたい、たい……

 脳が思考するよりも先に、歌弥の全身の細胞がそう叫んでいた。
 このトラックに、自分の声を乗せたい。この美しい音の波の中に自分の身体を沈め、この曲の一部になりたい。
 音楽から離れ、息を潜めて生きてきた歌弥の心の奥底で、完全に死に絶えたはずの「ボーカリストとしての本能」が、悲鳴を上げて暴れ始めた。

 喉が熱い。唇が微かに震える。
 無意識のうちに、歌弥の口が開きかけた。この空白の帯域に、自分の声を叩き込みたいという純粋な衝動が、恐怖という分厚い壁を突き破ろうとする。

 しかし。

 いざ口を開いて声帯を震わせようとした瞬間、脳裏にあの日の光景が鮮明にフラッシュバックした。
 静まり返る客席。嘲笑。そして『俺たちの人生を潰す気か』という冷酷な声。

 「ぁ、ひゅっ……!」

 開いた口から漏れたのは、音楽とは到底呼べない、引きつったような過呼吸の音だった。
 恐怖が、衝動を上回ったのだ。
 歌いたい。けれど、歌えない。声を出そうとすればするほど、見えない手が喉を強く締め上げ、呼吸すらままならなくなる。
 音楽の美しさと、己の身体の残酷な欠陥。その絶対的な矛盾に引き裂かれ、歌弥の目からボロボロと大粒の涙が溢れ出した。

 「あ……ぁ……っ、う、あぁ……っ」

 ヘッドホンから流れる至高の音楽を聴きながら、歌弥は嗚咽を漏らした。
 腕を押さえつけられたまま、力が抜けて壁伝いにずるずると座り込もうとする歌弥の身体を、美都が力強く抱き留める。
 美都はヘッドホンを外し、歌弥の耳元に自身の唇を寄せた。

 「……美しい曲だろう? だがお前が歌わないのなら、この曲はただのゴミだ」

 耳に直接流れ込んでくる低く熱い声が、歌弥の背筋にゾクゾクとするような悪寒と、それと同質の熱を走らせる。
 美都の腕は、震える歌弥の背中を、まるでこの世で一番大切な宝物を扱うかのように優しく、しかし絶対に逃げられない力強さで抱きしめていた。

 「どうして泣くんだ? お前の身体は、お前の本能は、俺の音を求めているじゃないか。俺の音楽の中なら、お前は自由に啼ける。自由に歌えるはずだ」
 「ちが……っ、おれは、こわい……っ。あんたなんか信用できない……っ。どうせまた、声でなくて……捨てられる……っ」

 恐怖と不信感で混乱した頭のまま、歌弥は子供のように泣きじゃくりながら本音を吐き出していた。
 完璧な音楽を前にして、自分の無力さとトラウマの深さを改めて突きつけられたのだ。美都がどれほど自分の声を求めていようと、自分はそれにすら応えることができない壊れた楽器なのだと。

 だが、美都は歌弥が抱える恐怖を甘く笑い飛ばした。

 「誰が捨てるって? 俺がお前の声から離れられないんだ。お前が歌えなくても、息ができなくても、ただそこで震えて泣いているだけでいい。俺がそのすべてを、極上の音楽にしてやる」
 「あっ……」
 「俺のところへ来い、歌弥。お前のすべてを俺に明け渡せ」

 それは、悪魔の囁きよりも甘く、どんな脅迫よりも逃れがたい、絶対的な引力を持った呪縛の言葉だった。

 もう二度と絶対に歌えないという深い絶望と、不気味なまでに自分を追い詰めてくる目の前に男への不信感。しかしそれと同時に湧き上がる、この男の音楽の中でならもう一度音を紡げるかもしれないという、微かだが強烈な欲求。

 様々な感情が激しく揺れ動く歌弥の心は、美都の放つ常軌を逸した熱量によって少しずつ、しかし確実に溶かされ始めていた。

 渡り廊下に吹き込む夕暮れの風が、二人の身体を冷やす。
 しかし歌弥を抱きしめる美都の体温と、その胸の奥底で燃え盛る執着の炎だけは、どれほど拒絶しようとも、歌弥の魂をじわじわと焼き焦がしていくのだった。

 ——ああ、逃げられない

 この狂気に満ちた天才の引力に捕まってしまった以上、一瀬歌弥という存在は、彼によって完全に調律されるまで、永遠に解放されることはないのだ。