「啼き声さえ歌のように」と君が笑うから


 薄暗い第三防音室の淀んだ空気の中で、歌弥の紡ぐハミングはか細くも確かな熱を帯びていたが、反響することなく吸音材へと吸い込まれていった。

 目を閉じ、両膝を抱え込んだまま、己の内部へと深く潜り込んでいく。外界のあらゆるノイズから完全に遮断されたこの四畳半の空間だけが、今の彼に許された唯一の聖域だった。

 声帯の奥底にこびりついた古傷が、音程を上下させるたびにチクリと痛む。かつてのような、どこまでも突き抜けるような透明なハイトーンはもう出ない。それでも、恐怖で震える喉の筋肉を必死に宥めながら、歌弥は母音だけの不完全な旋律を紡ぎ続けていた。

 それは、傷ついた獣が暗がりで己の傷を舐めるような、ひどく痛ましく、同時に自己完結した孤独な行為だ。この掠れたハミングが誰かの耳に届くことなどあり得ないし、届いてほしくもない。ただ、自分の内側で渦巻く名状しがたい喪失感を、音という形に変換して外へ逃がしてやらなければ、今にも狂ってしまいそうだった。

 「……んん、……ぁ、……あぁ……」

 ひとすじの涙が、目を閉じた歌弥の睫毛を濡らし、頬を伝って埃っぽい床へと落ちる。
 泣いているという自覚すら、今の歌弥には希薄だった。ただ、メロディを紡ぐたびに、かつてステージで光を浴びていた頃の記憶と、それを一瞬にして失ったあの日の絶望が交互にフラッシュバックし、感情の許容量を超えて水分が溢れ出しているだけだ。

 ——歌うのはこわい。

 不完全で、ひどく掠れていて、途切れ途切れの音。

 それでも、その絶望の底から絞り出されたような切実な響きには、完璧に調整されたどんな楽器にも出せない、剥き出しの命の震えが宿っていた。

 「……っ!」

 歌弥は、さらに深く息を吸い込んだ。
 次のフレーズへと移行しようと、震える唇をわずかに開いた、まさにその瞬間だった。

 ガチャンッ!!

 静寂に包まれていた密室に、鼓膜を劈くような金属音が響き渡った。
 それは、分厚い鉄製の防音扉の重いラッチが、外側から乱暴に引き剥がされた音だった。
 歌弥のハミングが、刃物で断ち切られたようにピタリと止まる。
 ビクッと肩を跳ね上がらせ、歌弥は口を半開きにしたまま弾かれたように顔を上げた。

 ギィィッ、と。
 長年油を差されていない蝶番が悲鳴を上げ、絶対に開くはずのない聖域の扉が、外側から力任せにこじ開けられる。
 密室の暗闇を切り裂くように、廊下の白々しい蛍光灯の光が、鋭い刃となって四畳半の空間に雪崩れ込んできた。
 突然の強烈な光に、歌弥は目を細め、咄嗟に腕で顔を庇った。
 光を背にして、長身の男のシルエットが扉の敷居に立っていた。

 「……は、あぇ……?」

 歌弥の喉から、間の抜けたような掠れた音が漏れる。
 誰も来るはずのない場所だ。ここは大学の敷地の最果てであり、廃墟同然の旧サークル棟の、さらに一番奥にある古びた防音室だ。
 目の前の状況が理解できず、歌弥の思考は完全にフリーズしていた。

 逆光の中で、男がゆっくりと密室の中へと一歩を踏み出す。
 その瞬間、男の顔が廊下の光を浴びて、はっきりと歌弥の瞳に映し出された。
 無造作にセットされた色素の薄い髪、端正だがどこか退廃的な空気を纏った顔立ち。そして、長身で肩幅の広い、均整の取れた体躯。黒のルーズなシャツから覗く首筋や腕には、彼がただの学生ではないことを示すような、洗練された危うさが漂っている。

 その顔には見覚えがあった。というよりも音楽を志す者で、彼の顔を知らない人間などこの大学にはいない。
 インディーズ界隈で「天才」と名高く、若くしてすでに数多くの有名アーティストに楽曲を提供しているトラックメイカー、響谷美都(ひびやよしと)だった。

 だが、歌弥の意識を何よりも釘付けにしたのは、美都の「目」だった。
 美都の漆黒の瞳は、まるで飢えた獣が極上の獲物を見つけたかのように、常軌を逸した熱量を帯びてギラギラと輝いていたのだ。

 呼吸は荒く、肩が上下に揺れている。まるで、何かに憑かれたようにキャンパス中を走り回り、ようやくここまで辿り着いたと言わんばかりの尋常ではない様子だった。

 美都の視線が、床に座り込んでいる歌弥の姿を真っ直ぐに射抜く。
 目があった瞬間、歌弥は全身の産毛が逆立つような、本能的な悪寒を感じた。

 ——捕食者に見つかった

 言語化できない圧倒的な危機感が、歌弥の脳裏でけたたましい警報を鳴らす。

 「……見つけた」

 美都の口から、低く、しかしひどく甘い、地響きのような声が漏れた。
 その言葉の響きには、長年探し求めていた神聖な宝物をついに掘り当てたような、深い歓喜と狂気が入り混じっていた。
 美都は扉を開け放ったまま、ゆっくりとした足取りで歌弥へと近づいてくる。一歩、また一歩と距離が縮まるたびに、彼から発せられる圧倒的な存在感とプレッシャーが、狭い防音室の空気を圧縮していく。

 「お前が、俺の探していた声だ」

 その言葉が耳に届いた瞬間、歌弥の心臓が早鐘のように鳴り始めた。

 ——声……?探していた……?

 意味がわからない。いや、その言葉の意味を理解したくなかった。
 今の自分の声は、誰かに求められるような代物ではない。かつての「奇跡」と呼ばれた声はとっくに壊れ、今はただの掠れたノイズしか出せないポンコツだ。
 それなのに、目の前の男は、さっきまで歌弥が一人で紡いでいた痛々しいハミングを聴いて、あきらかに「魅了」されている。
 そんなことは、あってはならない。誰かに自分の歌を聴かれ、再び期待の眼差しを向けられることなど、歌弥にとってもっとも恐ろしい悪夢の再来でしかないのだ。

 「ち、ちがっ……」

 歌弥は恐怖に怯えてガチガチと歯の根を鳴らしながら、後ずさりしようとした。だが、背中はすでに防音室の冷たい壁に張り付いており、これ以上逃げる場所はない。

 「お、おれは…………おれじゃ、ないです……っ。ひっ、人違い、です」
 「おい」

 極度のパニックから、喉がキュッと締まる。言葉がうまく紡げず、過呼吸の初期症状であるヒューヒューという音が混ざり始める。

 「うたえなっ……、おれはもう、歌えないから……っ!やめて、こっちを見ないで……っ!」

 歌弥は両手で自分の顔を覆い隠し、首を激しく横に振った。

 もう誰の目にも触れたくなかった。誰の期待も背負いたくなかった。

 だからこそこの真っ暗な密室に逃げ込んだというのに。

 なぜこの男は、自分の一番隠したかった柔らかい部分を土足で踏みにじってくるのか。

 震える足で無理やり立ち上がった歌弥は、美都の脇をすり抜けて開け放たれた扉から廊下へ逃げ出そうとした。
 一刻も早く、この異常な熱を持った男の視界から消え去らなければならない。あの日のトラウマが、フラッシュバックしてしまう前に。

 ドンッ!!

 「……あっ」

 逃げ出そうと踏み出した歌弥の身体は、しかし、あっけなく強固な壁のようなものに遮られた。
 いや、壁ではない。
 美都の逞しい腕が、歌弥の首のすぐ横、壁の吸音材を乱暴に殴りつけるようにして突き出され、その進行方向を完全に塞いだのだ。
 もう片方の手も反対側の壁にドンッと突かれ、歌弥は美都の両腕の中にすっぽりと閉じ込められる形になった。
 いわゆる「壁ドン」というような甘っちょろいものではない。それは獲物を絶対に逃がさないための、物理的かつ暴力的な檻だった。

 「ひぃっ……!」

 歌弥の背中が、再び壁に強く押し付けられる。
 見上げると、すぐ目の前に美都の顔があった。鼻先が触れ合いそうなほどの至近距離。
 美都から漂う、どこかスパイシーで高価そうな香水の匂いと、微かな汗の匂い、そしてアドレナリンが沸騰しているような独特の熱気が、歌弥の嗅覚と皮膚を直接叩く。

 圧倒的な体格差だった。歌弥も決して小柄なほうではないが、美都の骨格の太さと筋肉の厚みは、彼を完全に赤子扱いできるほどの威圧感を持っている。

 「逃がすかよ」

 美都は逃げ惑う小動物を見下ろす獣のような、それでいて壊れ物を扱うような矛盾した視線で歌弥をじっと見つめた。
 その漆黒の瞳の中には、明確な「執着」の炎が狂信的に揺らめいている。

 「あんな声で啼いておいて、人違いなんて通用すると思うか?」
 「ちが……あれは、ただの……っ」
 「ただの、なんだ?ノイズだとでも言うつもりか?だとしたら、俺の耳がおかしいんだろうな。俺にはお前の不完全な声の震えが、世界中のどんな完璧なボーカルよりも、狂おしいほど美しく聴こえた」

 美都の言葉は、熱を帯びた息となって歌弥の耳元に吹きかかった。
 ビクッと全身を震わせる歌弥の頬に、美都の冷たい指先がそっと触れる。
 先ほどまで歌弥が流していた涙の跡を、美都の親指がゆっくりと、確かめるようにしてなぞった。

 「……泣いていたのか。どうして?」
 「やめ……さわらないで……っ」
 「いいや、触れる。お前は俺が見つけた、俺だけのミューズだ。この密室の中から漏れ聞こえた一音で、俺の脳は完全に焼き切れた。もう、お前の声なしでは、俺の音楽は完成しない」

 それはあまりにも理不尽で、あまりにも自分勝手な宣言だった。
 歌弥の都合や、彼が抱えている傷のことなど一切考慮されていない、純度百パーセントの独占欲。

 かつて歌弥を搾取した大人たちと同じように、この男もまた、自分から「声」を奪おうとしているのか。
 恐怖で視界がチカチカと点滅し、歌弥の喉から「ひゅっ、かひゅっ」という痛ましい過呼吸の音が漏れ始める。
 膝の力が抜け、その場に崩れ落ちそうになる歌弥の腰を、美都の強靭な腕がガッチリと抱き留めた。
 逃げることはおろか、倒れることすら許さない。

 「怯えなくていい。俺はただ、お前のその声が欲しいだけだ。お前が抱えている絶望も、掠れた息遣いも、その震えるようなノイズも、すべて俺に寄こせ」

 美都の瞳の奥にあるのは、計算高い打算でもなければ、商業的な成功への野心でもなかった。
 そこにあるのは、純粋すぎるがゆえに狂気を孕んだ、芸術への飢餓感と、歌弥という存在そのものに対する異常なまでの渇望だった。
 そのあまりに真っ直ぐで重すぎる感情の奔流に当てられ、歌弥の精神はついに限界を迎えた。

 「いやだ……っ、おれは、歌えな……」

 すうっと頭から血の気が引き、歌弥の意識が遠のいていく。
 最後に見たのは、気絶しそうになる自分を抱き寄せ、その首筋に顔を埋めながら、深く、深く匂いを嗅ぐように深呼吸をする美都の、恍惚とした表情だった。

 古びた旧サークル棟の、薄暗い第三防音室。
 かつて歌弥にとって唯一の安全な避難所だったその密室は、一人の狂気的な天才の乱入によって、二度と逃げ出すことのできない甘く恐ろしい鳥籠へとその姿を変えようとしていた。

 防音扉の外から差し込む白い光が、床に絡み合う二人の影を、黒々と、どこまでも長く伸ばしていた。