あかりもり

「維月くん、エスプレッソひとつもらえる?」
「はい、分かりました」
常連さんに声を掛けられて、振り返る。今まで働いてきた場所は工場とかが多かったから、常連さんという概念は未だに新鮮だ。
「そういえば維月くんはさ、髪切らないの? けっこう長いよね」
作業しながら「んー」と少し考える。元を辿れば毎日に余裕がなさすぎて切らずに放っておいたのがデフォルトになっただけなのだけど、現状特に切ろうという考えはなかった。ハーフアップにしているから現状生活に特に支障はないけど、確かに首筋が大方隠れるくらいの長さなのは長い方なんだろう。
「切った方が良いですかね? 特に気にしてないんですけど」
「別に良いんじゃないか。維月くんがそこまでふわふわした感じじゃなければ、不良に見えてたかもしれないけど」
「うわぁ嫌だ」
俺がそう呟くと、常連の紳士は声を上げて笑った。
「あら、それなら星來ちゃんはどう思うの?」
近くにいたご婦人が会話に混ざってくる。彼女と向かい合って座っていた星來が「えー?」と言いながら俺の顔を覗き込むように眺めた。
「……維月が髪切ったら、誰か分かんないかもしれません」
「酷い。星來、俺たちもう1年近い付き合いなの知ってる?」
「知らなぁい」
戯けたように言う彼女に、思わず少し笑ってしまった。

晩秋の風が、静かに扉に嵌まった磨り硝子を揺らしている。
この店、どうして客足にこんなに波があるんだろうか。ずっと閑散としていて経営が回らないよりは100倍ましだけど、昼過ぎになるとほぼ毎日閑古鳥が鳴くのが不思議だった。
店の奥に並ぶ数本のギターを1本ずつ持ち上げて、抱えるようにしながら磨いていく。透夏さんは、これをずっと1人でやっていたのか。大変だ。
「……少年」
ぱっと振り返ると、イサナさんが「よ」と片手を挙げて立っていた。いつの間に来たのだろう。扉に背を向けて作業をしていたとはいえ、普段の彼女なら入ってきた時に気付くはずだった。
「こんにちは。透夏さんなら、またどっか行ってますよ」
「そうか。少女は?」
「風邪引いたみたいで。今日は休みです」
ふぅん、とイサナさんが口の中で呟く。
「珍しいな。少女が体調崩すなんて」
「そうですね。まぁ、星來も人間ですから。風邪引くこともありますよ」
1人でも大丈夫だからとっとと店に行け、と半ば追い出されるように家を出たのを思い出す。責任感が強いというか何というか、だ。
「……あの、イサナさん」
「何だ」
「最近、顔合わせる度に気になってるんですが」
「だから何だ。回りくどい」
俺の顔を覗き込むように眺めるその目が、微かに暗い。
「……何かありました?」
薄暗い目が2度、3度、瞬かれた。
「………何故だ?」
イサナさんが静かに笑う。いつもの彼女らしくない、穏やかで隙のない笑顔。
透夏さんが何かを隠すように笑う時の表情に似ているのかと、ふと気付いた。
「……ただの勘です。何か飲みます?」
「そうだな、カフェオレひとつ」
ギターを置いて立ち上がった俺にいつものように硬貨を手渡しながら、イサナさんが笑う。
「勘、か。少年らしくないな」
「そうですか? 割と感覚で生きている方だと思っているんですが」
ふわっと香るコーヒーの香りが鼻を(くすぐ)った。
「確かにすぐに論理を組み立てる性格ではなさそうだけどな。でも詭弁であれど、かつての少女の頑なな決意をひっくり返せる程度の思考回路はあるだろう」
へぇ、と心の中で呟く。
「聞いたんですか。星來から」
「まぁな。なかなか面白かったぞ、家出少年と家出少女の旅路というのも」
深刻さの欠片もなくそう言ってのけるイサナさんに、少し笑ってしまう。
「左様ですか」
そう言ってから、家出少女の口癖が感染っていることにふと気が付いた。心の中でふっと笑って、湯気を立てるマグカップを静かに押し出した。
「はい、どうぞ」
「あぁ」
突然鳴り出したヴーという振動音が、鼓膜を静かに震わせる。目の前に座る彼女の目に、さっと暗い影が過った気がした。
ぶつっと音を立てて通知音を消してから、イサナさんが微かに笑う。
「……人間というのは、馬鹿だよな」
顔を上げると、彼女は静かに立ち昇る湯気を眺めたまま、独り言のように続けた。
「家柄とか、血筋とか、名誉とか、そういう意味があってないようなものに幾らでも固執できるんだ。嫌気が差して逃げ出した、居場所も分からない娘を家の存続のために執念深く探し続けられる程度には。……捕まったら、それで終わりだ」
マグカップを静かに傾ける彼女の横顔を眺めながら、俺も独り言のように呟く。
「……捕まる、って言い方をするんですね」
「当然だろう。私にとっては、牢獄と同じだ」
返すべき言葉が上手く浮かばなくて、黙っていた。
彼女がふと俺の存在を思い出したように顔を上げて、また乾いた笑い声を立てる。
「……おかしな話をして済まないな、少年。忘れてくれ」
「……努力はします」
立ち上がったイサナさんの、静かな笑い声が聞こえた。
扉の向こうで、冷たい風の音がする。
「維月」
凛とした声に、思わずはっとして顔を上げた。いつもの彼女のような、真っ直ぐな声。でもカウンターの向こうにある微笑は、どこまでも孤高のものだった。
「……彼奴らには言うなよ」
じゃあな、と片手を挙げて、イサナさんが扉の向こうに出て行く。「お気を付けて」という俺の言葉に、彼女がまた小さく手を挙げたのが見えた。
名前覚えてたんだなと、ふと思う。
彼奴らには言うなよ、と彼女は言った。言わなかったら、俺1人の中に抱え込んでいたら、彼女は自然と何か良い方に転がるのだろうか。転がってくれるのだろうか。
ひゅう、という風の音。
何故だろうか。見たこともないのに、捕鯨船に追われるくじらの姿が、ぼんやりと脳裏を泳いで過ぎて行った。

「維月」
星來の軽やかな声に、振り返る。1日休んで復活を遂げた彼女が、後ろ手を組んでにこにこしていた。
「昨日、何かあった?」
「何かって?」
相変わらず、感情の機微に聡い奴だ。
「分かんないけど、維月がふと考え込んじゃうような何か。私にも透夏さんにも明かしたくないような何か」
別に話したくないなら良いんだよ、と続ける星來に、笑ってしまう。俺が話すまで、優しくしつこく訊き続ける癖に。
「何にもないよ」
「そう? じゃあ、これ行ってきます」
透夏さんが思い出したように「暇な時これ近所のポストに入れて回って来て」と言っていたチラシの束。それを取り上げて、彼女が歌うように言った。
「……気を付けて」
「うん、ありがとう」
遠ざかっていく、軽やかな足音。続けてカウンターの方から、透夏さんの少し愉快そうな声が聞こえてきた。
「あ、星來。維月の隠し事分かった?」
「分かんなかったです」
「そっか。時間帯的にイサナのことだと思うんだけどな」
はぁ、と溜息を吐く。
星來以上に鋭い人が、向こうに1人。共謀しているならそう言って欲しい。こっちだって負け戦を対等なそれと錯覚したまま動くのは骨が折れるというものだ。もし盤をひっくり返すなら、それはそれで早い方が良い。
「……2人で何喋ってるんですか」
「あ、維月。君の隠し事は何だろうねって話。イサナに何か言われた?」
カウンターの方に顔を覗かせた俺に、透夏さんがどこか楽しそうに言う。優しくて良い人なんだけど、食えない人だから恐ろしくもある。どこまで分かって言っているんだろうか。
「確かにイサナさんは昨日来ましたけど……特に何も言ってなかったですよ」
「ふぅん。口止めされたわけだ」
まさか、としらを切るのは簡単だ。でも隠し通す義理と明かしてしまうメリットが、頭の中の天秤に載っている。どちらが重いかは、明白だ。
天を仰ぐ。深く息を吐く。
彼奴らには言うなよ。
ずきりと、胸が痛む。
「……なんで分かるんですか」
「んー? 僕、自覚的に嘘吐いた人はみて分かるもん。影が揺らぐから」
陳腐な作り話でも話すような、軽妙な語り口。
「なるほど、それは勝てないですね」
星來がくすりと笑って、俺もそれに釣られて笑ってしまった。幽霊の話をさらりとするような透夏さんだから、こんな話でも驚かずに受け流せてしまう。
「……詳しくは知らないんですけど。なんか割と格式が高いような元所属コミュニティの人たちに、探されてるみたいですね」
「イサナさん、そんな危ないところに居たの?」
「危ないっていうか、めんどくさいところ? 生まれて最初に属する場所は、選べないでしょ」
聡い2人には、この程度の説明で十分だろう。
「私、それ聞いて良かったのかな」
訊いてきた癖に、心優しき家出少女はそんなことを俺に尋ねる。
「喋ったのはこっちだよ。ほら俺、約束を半分破る程度には悪い人だから」
どこかで聞いたことがあるような台詞だな、と思いながら、少し笑って見せた。
「……いや、あの」
星來が戸惑ったように此方を見て、続ける。
「勝手に維月が全部悪いってことにしないで」
その維月が言ったことだというのをまるで構わないような、真っ直ぐな言葉。
微かに、笑ってしまう。
一番星のような人は、こういうことを言うのだ。