あかりもり

蝉の声が、遠くに聞こえる。
「よ、少年」
声を掛けられて振り返ると、見知った顔が目の前にあった。
「あ、イサナさん。こんにちは」
俺のことを「少年」と呼ぶのは彼女くらいだから、声を掛けられれば振り向かなくても8割方予想は付くのだけど。
「日向はどこだ?」
イサナさんは透夏さんのことを日向と呼ぶ。透夏さんと呼んでいる俺たちだけど、どちらで言われてもきちんと連想できるものだなと少し感心した。
「透夏さんなら一瞬出てくるねって言ってどっか行きました。すぐ戻ってくると思いますよ」
「お前らに店番を押し付けて彼奴(あいつ)は何をやっているんだ」
俺たちは気にしていないのに、盛大に溜息を吐くイサナさんに苦笑いしていると、星來が静かな足音を立てて俺とイサナさんの方にやってきた。
「大丈夫ですよ、透夏さんのことですから本当にすぐ戻ってくるでしょうし」
「……それなら良いんだが」
そう返して息を吐くイサナさんを見て、星來が鼻先でくすっと笑う。
「イサナさん、透夏さんが居ないと寂しそうですもんね」
「は? そんなわけないだろう」
「左様ですか?」
「……あぁ」
心外(しんがい)だというような表情を浮かべた彼女に、星來と俺は声を上げて笑った。
からん、という音と蒸し暑い空気を感じて振り返ると、透夏さんが扉の影から顔を出した。手に何か半透明の袋を持っている。
「ただいま。……あれ、イサナだ」
よ、と軽く手を挙げる彼女に同じ仕草を返して、透夏さんは此方にやってきた。
「従業員を置いてどこに行っていたんだ」
「……花屋。もうすぐお盆だから」
「ふぅん。柄じゃないな」
「放っとけ」
少し寂しげに透夏さんが笑う。彼は優しいから柄じゃないとは思わないけど、少し驚いた。お墓参りにでも行くんだろうか。
「お墓参りでも行くんですか?」
俺の疑問を星來がすぐに口に出して、また少し驚く。
「ううん。お墓の場所も分かんないから、僕が勝手にやってるだけ」
「ふぅん」
涼やかな薄緑の花と霞草が袋の口から覗いているのが見えた。透夏、という名前が何故か脳裏を過る。この人が──透夏さんが前に言っていたユーレイの友達。その人と何か関係があるんだろうか。
「良いな。日向、この先私が死んだら私の分の花も供えてくれ」
「どうしたのイサナさん、縁起でもない」
星來が薄く笑ってそう言った。透夏さんは花を眺めたまま黙っている。俺が何か言おうとした瞬間、透夏さんは何事もなかったかのようににこっと笑った。
「……嫌だね。絶対供えてやんない」
「酷いな。薄情者め」
「自分で買いに行けば。維月、そこの棚から花瓶出してくれる?」
「あ、はい」
ここに来てから一度も触れたことがなかった小さな開戸を開けると、予想通り中はきちんと整頓されていた。透夏さんは整理整頓が上手だよなぁとぼんやり思う。
「そういえば、お供えの花なのに仏花じゃないんですね」
水を汲み終えた花瓶を手渡しながらそう言うと、透夏さんはちょっと笑った。
「本来はそうしなきゃいけないのかもしれないけどね。仏花よりも単純に綺麗な花の方が、彼も嬉しいんじゃないかと思って」
僕伝統とか踏み倒しちゃう悪い人だから、と続けて、透夏さんがまた笑う。
その時、思い出したようにイサナさんが「あ」と呟いて彼の方を向いた。
「そういえば日向、お前作曲するよな。詩と曲、どっちを先に作るタイプだ」
「曲だなぁ、今はほぼ作ってないけど。……急な問いだね。その心は?」
「私の詩を曲にしてくれる人を探しているんだ。少年少女、やるか?」
突然こっちに話が飛んできて、俺と星來は驚いて顔を見合わせた。
「無理ですよ。作曲自体やったことないんですから」
「右に同じく」
「だってさ。他を当たってくれ」
「……仕方ない。探してみるか」
イサナさんが瑞々しい花を眺めながら呟く。花瓶に生けられたその花は、光を青く乱反射させて輝いていた。

晩夏の西日が扉の摩り硝子を通して僅かに差し込んでいる。
カウンターの方を覗くと、透夏さんがギターを手にして静かに椅子に座っていた。
「あれ、透夏さんってギター弾くんですか」
何本かスタジオで貸しているギターは最低限の手入れの方法を教わってからというもの触れる機会があるけど、これは見覚えがない。彼の私物だろうか。
「うん、まぁね。最近は前ほど弾いてないけど、掃除はしとこうと思って」
透夏さんに抱えられたそれは少し年季が入ってはいたけど、素人目に見ても大切にされているのがよく分かる柔らかな艶やかさがあった。
「維月、弾いたことある?」
「いえ、ないです」
「もし興味あればだけど。触ってみる?」
「……良いんですか? 素人が触ったら良くないんじゃ」
「僕の私物だから問題なし。それから維月、当たり前のことを言うようだけど、最初はみんな素人だよ」
そう言って透夏さんが笑った。その笑顔には魔力があるんじゃないかと思う。俺も星來も、この人が笑うと何だか安心してしまうのだから。
促されて透夏さんの隣に座ると、彼のギターを「はい」と手渡された。恐る恐る持ったそれは、持ち主と同じく俺を拒絶することなく受け入れてくれた。奥からここのギターを持って戻ってきた透夏さんが「様になってるじゃん」とまた笑う。
「あれ、突然のギター教室?」
星來が奥から顔を覗かせて問う。
「僕主催のね。星來もやる?」
「ううん、大丈夫です。私は見てます」
一緒にやってくれた方が教わる側としてはありがたいのだけど、星來は俺の隣に椅子を持ってきてにこにこしながら眺め始めた。
「じゃあ、構え方からね。足組んだ方がやりやすいかな。ボディの括れを足に載っけて、ギターは寝かせずに……」
見様見真似で構え、言われるままに弦を弾いてみると、透夏さんは「良いね」と言って頷いた。深い響きの音色が優しく耳に反響している。
「ここで働き始めた時も思ったんだけど……維月、飲み込み早いって言われない?」
「星來は要領が良いってよく言ってくれますけど、……前までは、愚図と言われることの方が多かったですね」
「そうなの? じゃあ、星來と僕が維月の隠れた才能を発見したわけだ」
俺の暗くなりかけた言葉に一切引き摺られることなくそう言ってくれた透夏さんに、ふっと笑ってしまう。
隠れた才能、と彼は言った。
でも俺という人間を見つけてくれたのも、星來と透夏さんなのだ。きっと。

「透夏さん、ギター借りても良いですか」
昼過ぎ、暇になってきたところで透夏さんに声を掛けると、カウンターで本を読んでいた彼が顔を上げた。
「良いよー。ていうか、気に入ったならあげるよそれ」
「……え?」
いや、だってこれは透夏さんのもので。
透夏さんが、大事にしていたもので。
「気軽に練習できる方が良いだろうし、今は僕よりも維月の方がいっぱい弾いてくれるから此奴も嬉しいだろうし」
ギターをまるで相棒のように語る透夏さんを見て、固くなっていた心が微かに揺れた。
「……良いんですか? 途中で投げ出すかもしれませんよ」
「まぁ、その時はその時でしょ。僕、あげるって言ったらもうその後は干渉しない主義だし。嫌になりましたって突き返しても良いし、持ち続けるも捨てるも譲るも任せるよ」
「それは責任重大過ぎて逆に捨てられないです」
真面目な顔でそう返すと、透夏さんが「だよね」と言って笑った。自分で言った癖に、変な人だ。
「……え、本当に良いんですか?」
「さっきからそう言ってるじゃん」
透夏さんが明るくそう言った。
「………ありがとう、ございます」
完全なる厚意なのは理解している。でも、嬉しいという感情を素直に顔に出しても良いものなのか、分からなかった。
「もしかして、余計なお世話だった?」
「いえ、そうじゃなくて。透夏さんの大事なものなのに、貰って素直に喜んで良いのか」
「僕が言い出しっぺなんだから気にしない。欲しいものを貰って素直に喜べるのは、子供の特権だよ」
子供、という言葉の言い方が優しいからか、不思議なほど嫌味には感じなかった。
「……透夏さん」
「うん?」
「ありがとうございます。大事にします」
うん、と透夏さんが頷く。笑って見せると、彼もすごく嬉しそうに笑った。

「気にしないようにしてましたけど、最近イサナさん来ないですね」
星來がそう言って、机を拭きながら少し心配そうな表情になる。俺も気にしないようにしていたけど、確かにイサナさんが最近姿を見せない。もう1ヶ月程になるだろうか。
「確かにね。でも彼奴、風来坊だから偶に来なくなるよ。長いと数ヶ月顔出さないし」
「そうなんですか? 旅でもしてるんですかね」
俺がそう訊くと、「それがね、そうでもないらしくて」と透夏さんが少し呆れたように笑った。
「生活圏は動かさないのに、所属してるコミュニティがコロコロ変わるみたいなんだよね。だから偶に消えたりはするけど、ここまでずっといるのは珍しい方なんだと思う」
なんでここなんだろうね、という透夏さんに星來が「透夏さんがいるからじゃないですか」と笑う。そんなわけないでしょと当の本人は否定するけど、あながち間違いではなさそうなのが複雑なところだ。「ねぇ維月?」と透夏さんに同意を求められて、笑って誤魔化す。
「あ、そうだ維月。1曲弾けるようになったって言ってなかった? 聴かせて」
星來にそう言われて、「うん」と頷いた。確かに昨日の閉店後に「できるようになった!」と彼女に話した記憶がある。
「良いね。あ、あっち部屋の方が静かだろうからそこ使う? 物置と化してるから、物多いけど」
「良いんですか? じゃあそこにします」
透夏さんの前で弾くのは緊張と気恥ずかしさでどうにかなりそうだと思っていたら、星來と透夏さんの間でそんな会話が交わされて驚く。エスパーか何かなんだろうか。
「ほら維月、どうしたの? 行こう」
「……うん」
彼女の手を引くのは、俺の役目だと思っていた。
でも、と思う。
違うのかもしれない。導かれているのは、俺の方なのかもしれない。
こんな日常のひとコマからそんなことを思うなんて、馬鹿げているとは思う。
でもどうしても、そう思えてならなかった。

「なんの曲弾くの?」
星來にそう問われて曲名を口にすると、「卒業式で歌ったことある」と彼女が驚いた顔をした。確かに元はポップスだけど、卒業ソングとして聴く機会が多いかもしれない。
「良い音だね」
弦を弾き始めてすぐ、星來が柔らかい笑顔を浮かべた。
「うん」
ふっと笑った俺を、彼女はまじまじと見ている。
「どうした?」
「ううん。……私さ、維月と初めて会った時、けっこう口数多くて元気な人って思ってたんだけど。意外と普段は静かだよね、維月って」
そもそも自分を口数が多いと思ったことがない。言われてみれば、初めて会った時には彼女の目が俺のそれと似ていたから、ヤバそうだなぁと思って沢山話しかけていた節はあったかもしれない。
「そうだな……気を張ってる時は割と喋るかも」
「そうだよね。緊張してる時の維月、喋りが流暢過ぎて逆になんか台本読むみたいだもん」
「うわ酷っ」
星來が軽やかに笑った。彼女の笑顔は、まるで星が輝くように見える。
「さて、茶番はこのくらいにして。いくぞ」
「うん」
歌を歌う前みたいにすっと息を吸い込んで、ギターを弾き始めた。星來はにこにこしながら聴いている。歌が入るパートが始まると、彼女の口から遠慮がちな歌が洩れ聞こえてきた。澄んだ冬の空気みたいな歌声が、美しかった。
「上手いね。もっと声出して良いのに」
俺も楽しくなってきて間奏の間にそう言うと、「音合ってる?」と微妙にズレたことを訊かれた。自由に弾いてるんだから自由に歌えば良いのに。違和感はないと答えると、彼女は嬉しそうに目を輝かせて、再びすっと息を吸い込んだ。

ギターの残響が、部屋の淀んだ空気の中にゆっくりと溶けていく。
「……あー、無理。酸欠」
頭を垂れてそう呟く星來に、「大丈夫?」と問いつつも笑ってしまった。
「今の歌、星來?」
透夏さんがひょっこりと顔を覗かせて、俺と星來は揃って顔を上げた。
「はい。上手ですよね」
俺がそう言うと、透夏さんも頷いた。
「うん、ちょっとびっくりした。星來、習ってたの?」
「……いえ。全く」
「へぇ。じゃ、才能だ」
さらっと言う彼に、星來がぶんぶんと首を横に振る。上手だったんだからそこまで否定しなくても良いのに。
「せっかくなら、練習して2人でどっか出てみたら? ここ貸しても良いし」
「えっ」という俺と星來の声が重なった。
「目標ある方が、人間は成長できるよ」
そう言って透夏さんは笑った。どこまで冗談なのか分からないけど、たぶん本気なんだろう。本当に、食えない人だ。