からん。
扉が開く音が聞こえて、星來と維月だけでなく俺も身体を少し固くした。
「どうした少女。日向に泣かされたか?」
星來がぶんぶんと首を横に振る。
「そんなわけないでしょ。……はぁ、驚いて損した」
扉の陰から顔を覗かせたイサナに、俺は本日何度目かの溜息を吐いた。
「そういえばさっきそこで、阿修羅みたいに怖い顔をした2人組とすれ違ったんだが。あんなの相手にしてたのか? 大変だな」
「さっき……?」
イサナが扉の外を指差しながら言ったのを聞いて首を傾げた。維月の両親が帰ってから10分程の時間が経過している。あそこを出てから、2人は真っ直ぐ階段を登っていったはずだ。此奴はいつから扉の前に居たのだろう。
「まぁ良い。カフェオレひとつ」
「労働する気力ないんだけど」
「私が仕事を与えて嫌な出来事を忘れさせてやると言っているんだ。ありがたく受け取れ」
いつものように価格ぴったりの硬貨を俺の手に押し付けながらイサナが言う。相変わらずの暴論だ。
「……はいはい」
「あ、透夏さん。私やりますよ」
星來が俺の後ろをすっと通り抜けて歩いていく。あの出来事の後だから少し心配だけど、頼もしい限りだ。
「……ありがとう」
「良い人間を雇ったな、日向」
「本当にね」
俺の真向かいに座っていたイサナが唐突に立ち上がり、扉の前に立った。扉の内側に掛かった「営業中」の札を雑にひっくり返す。「あ」という俺と維月の声が重なった。
何事もなかったかのように戻ってきたイサナに、「どういうつもり?」と問う。まだ営業時間のはずだ。
「お前ら3人共そんな疲労困憊を絵に描いたような顔して何を言っているんだ。どうせ土曜なんて碌に客は来ないだろう? 今日はもう臨時休業にしろ。今のお前らに営業は無理だ」
星來を働かせておいて何を言っている。
「休業ならお客さんのイサナさんを追い出さないといけませんけど」
維月が少し笑って言ったのを、イサナはさも当然かのように斬って捨てた。
「私は身内枠だから良いんだ」
「うわぁ初耳」
そうなんですか? と生真面目に訊いてくる維月に「違うよ」と返して、でも諦めてカウンターにずるずると身を預ける。流石に疲れた。
「透夏さん、何か飲みます?」
星來がイサナにマグカップを差し出しながら俺に問うた。
「んー」
唸るように言った俺の声を聞いてか、「どっち……?」と戸惑うような星來の声が聞こえる。
「星來、淹れてあげて。あ、透夏さんが閉店後に偶に出してくれるさ、あの、あれ」
「ココア?」
「それ。それにしよう、俺も飲みたい」
「……良い人間を雇ったな、日向」
さっきも聞いたような気がするイサナの声がした。
「ん、ほんとにね」
心地良い話し声が聞こえる。
何故だかすごくほっとしていることに、ふと気付いた。
からん、という音が聞こえて、カウンターに突っ伏したまま身じろぎする。星來と維月はもう早めに上がらせてしまった後だ。俺も上がったことには上がったけど、ここから動く元気がない。
「なんだ日向。死人みたいな顔して」
「……また来たの? 閉店です。お帰りください」
「客として来たんじゃない。お前らの知り合いの1人として来たんだから良いだろう」
「昼にもそう言って来たくせに。呼んでないよ」
もごもごと言う俺を見下ろして、イサナが呆れたように溜息を吐いた。とんでもなく癪だが、ちゃんと起き上がる気力はなかった。
「随分疲れているな」
「あんなことあったら疲れるでしょ」
維月の父と母だという2人の顔を思い出す。2人とも、実の息子に向ける表情をしていなかった。維月の怯えたような表情も、到底家族を見る目には見えなかった。
不甲斐ないなぁ、と思う。顔を伏せた体勢のまま、思考が黒く染まっていきそうな気がする。と、突然こつんと音を立てて、頭に衝撃と鈍い痛みが走った。
「何。痛いんだけど」
「酷いなぁ。この私がわざわざ差し入れを持ってきてやったのに」
顔を上げる。何を持ってきたのかは、頭に当たった感触で大体予想がついた。
「だからといって、商売として飲み物売ってる人間に缶コーヒーを持ってくる奴がいるか」
「いるさ、ここに。これだって美味いだろう?」
「俺は好きだけどさ。こういう仕事柄すごく嫌がる人もいるんだから、気を付けてよ」
馬鹿なことを言うと言いだけにイサナが俺を見る。真っ当なアドバイスは受けてくれないらしい。
「私はここ以外カフェの名を冠する場所に行かないんだから、何も問題はないだろう」
そんなこと知らない。そしてここは2つの意味で無名だから、冠してもいない。
「……あっそ」
イサナの手から妙に外気と調和した温度の缶を受け取って、カシュッと音を立てて開ける。さてはこれ、元々温かかったやつだろう。
どこから出したのか、彼女も同じ銘柄の缶を出してプルタブを起こした。小気味良い音が小さく聞こえる。
「にしても、意外だな。日向が缶コーヒーを好むのは」
「……好まないと思って持ってきたの?」
少し笑ってしまう。今日はずっと難しい顔をしていたからか、頬の筋肉が強張っているのが分かった。
「大人になるとさ、嗜好品……それこそお菓子とか、ある程度自由に買えるようになるじゃん」
「……そうらしいな」
「でも妙に駄菓子が恋しくなること、偶にない? 俺にとってはそれに近い感覚なのかも」
ふぅんと興味無さげに頷いて、イサナが缶を傾ける。俺も彼女を真似てコーヒーを飲むと、苦味と甘さが俺の心を少しずつ和らげていった。少し、不思議なくらいに。
「……ありがとね、これ」
「気が向いたから来ただけだ」
コーヒーの香りがする。
それを感じながら、ふっと笑った。
「なぁ日向。気になっていたんだが」
「何」
「どうして少年と少女には透夏と呼ばせるんだ? 日向で良いだろう。午前中に来る常連客は皆そう呼んでいることだし」
少し意外だった。イサナが人の呼び名を気にしているとは思っていなかったから。
「……もう10年くらい前かな。幽霊の友達がいたんだけど」
一蹴される想像をしていたけど、彼女は何も言わなかった。
「彼、生きていた時の記憶がなくてね。だから俺が『透夏』って名前を付けたんだ。最終的に彼は成仏したんだけど、できることなら……彼が生きている間に、俺で言うこの店みたいな、居場所があったら良かったのにって思って」
僅かに顔を上げると、イサナは真っ直ぐに俺の方を見ていた。
「……杠さんからここを譲り受けた時に、それを思い出してさ。それを忘れないように、誰かの居場所の一つになれるように、『透夏』って、彼の名前を呼んでもらうことにした」
ふぅん、とイサナが口の中で呟く。訊いてきた癖に、あまり興味がありそうな反応には見えなかった。
「日向らしくないな。過去に縋るなんて」
「縋るって何だよ。てか、これを聞いたらお前も透夏って呼んでくれるのかと思った」
「何を言っている。お前は日向だろう」
当然のように言われて、目を瞬かせてしまう。
何だよ。お前の本名は、教えてくれない癖に。
それを口に出したら何かが崩れてしまいそうで、黙っておいた。
時計の秒針の音がする。心地良い静けさを切り裂くように、唐突にバイブレーションの音がカウンターを這うように聞こえてきた。
「……電話。鳴ってるよ」
「いや、良い。出たくないんでな」
机の上に投げ出されていたイサナのスマホを、彼女がぱっと取り上げる。光る液晶に浮かび上がる『母親』という文字が、一瞬見えた。
「……そうだ。何か飲む?」
立ち上がってそう言った俺を見て、イサナが不思議そうに首を傾げた。
「何を言っている。閉店後なんだろう?」
「身内枠だって自分で言ったじゃないか」
何かしていたいというのが本音だったけど、それを言うのは何だか癪だ。
「じゃああれ。今日お前が飲んでいた」
「ココア?」
「それだ」
維月と言いイサナと言い、なんでみんなココアの名前をど忘れするんだろうか。可愛らしい音感だから耳に残ると思うのだけど。
「疲れてる時に甘いもの食べたり飲んだりすると、なんかほっとするよな。生きてるって感じがする」
「何だそれ」
イサナが少し笑った気配があった。
「生きてるって感じ、か。……なぁ日向。私はそもそも、生きることにそこまで執着がないんだ。面倒っていう感覚の方が強い」
振り返る。彼女は椅子に横向きに座って、真っ直ぐ前を向いていた。手の中にあるスマホはもう既に死んだように静まり返っている。『母親』。さっき一瞬見えたその無機質な登録名が、脳裏にこびり付いていた。
「家族の繋がりなんて、周りの執着があれば完全に切ることなんてなかなか難しいだろう? この世に縁切り屋が居れば良かったんだけどな」
普段なら、聞き流したかもしれない。
でも彼女のふわっと消えそうな雰囲気が、俺にその行動を許さなかった。
「……イサナ、」
「イサナじゃない」
少し驚く。名乗るほどの名前はない。イサナとでも呼んでくれ。いつもそう言っていたのは、彼女の方だった。
「小春だ。……似合わんだろう。どうせならこんな不相応な名前じゃなくて、くじらみたいな雄大な名前が良かった」
ふ、と笑ったような声が聞こえた。
勇魚。くじらの古名ですよね。
いつかの星來の声が、耳の奥に蘇る。
「……小春」
ぴくっとイサナの肩が震えた。
やっぱり、彼女の名前じゃないか。
「小春」
もう一度ちゃんと呼ぶと、彼女がゆっくりと振り返った。少し笑ってしまう。
「似合ってる。良い名前だ。暖かくて、優しい」
一瞬、彼女の双眸が揺らいだように見えた。
「……勘違いしているようだが」
ふっと笑う。何だかすごく、悲しそうに。
「私は、優しくなんてないぞ」
「……これを見てもか?」
空になった缶を軽く振って見せる。それを見て、イサナはまた悲しそうに笑った。
「日向、お前はきっと……白昼夢でも見ているんだ」
こんな日暮れ時に何を言っているんだ、と思う。白昼に見る夢なんて意味ではないと分かっていても、そう言ってしまいたかった。
扉が開く音が聞こえて、星來と維月だけでなく俺も身体を少し固くした。
「どうした少女。日向に泣かされたか?」
星來がぶんぶんと首を横に振る。
「そんなわけないでしょ。……はぁ、驚いて損した」
扉の陰から顔を覗かせたイサナに、俺は本日何度目かの溜息を吐いた。
「そういえばさっきそこで、阿修羅みたいに怖い顔をした2人組とすれ違ったんだが。あんなの相手にしてたのか? 大変だな」
「さっき……?」
イサナが扉の外を指差しながら言ったのを聞いて首を傾げた。維月の両親が帰ってから10分程の時間が経過している。あそこを出てから、2人は真っ直ぐ階段を登っていったはずだ。此奴はいつから扉の前に居たのだろう。
「まぁ良い。カフェオレひとつ」
「労働する気力ないんだけど」
「私が仕事を与えて嫌な出来事を忘れさせてやると言っているんだ。ありがたく受け取れ」
いつものように価格ぴったりの硬貨を俺の手に押し付けながらイサナが言う。相変わらずの暴論だ。
「……はいはい」
「あ、透夏さん。私やりますよ」
星來が俺の後ろをすっと通り抜けて歩いていく。あの出来事の後だから少し心配だけど、頼もしい限りだ。
「……ありがとう」
「良い人間を雇ったな、日向」
「本当にね」
俺の真向かいに座っていたイサナが唐突に立ち上がり、扉の前に立った。扉の内側に掛かった「営業中」の札を雑にひっくり返す。「あ」という俺と維月の声が重なった。
何事もなかったかのように戻ってきたイサナに、「どういうつもり?」と問う。まだ営業時間のはずだ。
「お前ら3人共そんな疲労困憊を絵に描いたような顔して何を言っているんだ。どうせ土曜なんて碌に客は来ないだろう? 今日はもう臨時休業にしろ。今のお前らに営業は無理だ」
星來を働かせておいて何を言っている。
「休業ならお客さんのイサナさんを追い出さないといけませんけど」
維月が少し笑って言ったのを、イサナはさも当然かのように斬って捨てた。
「私は身内枠だから良いんだ」
「うわぁ初耳」
そうなんですか? と生真面目に訊いてくる維月に「違うよ」と返して、でも諦めてカウンターにずるずると身を預ける。流石に疲れた。
「透夏さん、何か飲みます?」
星來がイサナにマグカップを差し出しながら俺に問うた。
「んー」
唸るように言った俺の声を聞いてか、「どっち……?」と戸惑うような星來の声が聞こえる。
「星來、淹れてあげて。あ、透夏さんが閉店後に偶に出してくれるさ、あの、あれ」
「ココア?」
「それ。それにしよう、俺も飲みたい」
「……良い人間を雇ったな、日向」
さっきも聞いたような気がするイサナの声がした。
「ん、ほんとにね」
心地良い話し声が聞こえる。
何故だかすごくほっとしていることに、ふと気付いた。
からん、という音が聞こえて、カウンターに突っ伏したまま身じろぎする。星來と維月はもう早めに上がらせてしまった後だ。俺も上がったことには上がったけど、ここから動く元気がない。
「なんだ日向。死人みたいな顔して」
「……また来たの? 閉店です。お帰りください」
「客として来たんじゃない。お前らの知り合いの1人として来たんだから良いだろう」
「昼にもそう言って来たくせに。呼んでないよ」
もごもごと言う俺を見下ろして、イサナが呆れたように溜息を吐いた。とんでもなく癪だが、ちゃんと起き上がる気力はなかった。
「随分疲れているな」
「あんなことあったら疲れるでしょ」
維月の父と母だという2人の顔を思い出す。2人とも、実の息子に向ける表情をしていなかった。維月の怯えたような表情も、到底家族を見る目には見えなかった。
不甲斐ないなぁ、と思う。顔を伏せた体勢のまま、思考が黒く染まっていきそうな気がする。と、突然こつんと音を立てて、頭に衝撃と鈍い痛みが走った。
「何。痛いんだけど」
「酷いなぁ。この私がわざわざ差し入れを持ってきてやったのに」
顔を上げる。何を持ってきたのかは、頭に当たった感触で大体予想がついた。
「だからといって、商売として飲み物売ってる人間に缶コーヒーを持ってくる奴がいるか」
「いるさ、ここに。これだって美味いだろう?」
「俺は好きだけどさ。こういう仕事柄すごく嫌がる人もいるんだから、気を付けてよ」
馬鹿なことを言うと言いだけにイサナが俺を見る。真っ当なアドバイスは受けてくれないらしい。
「私はここ以外カフェの名を冠する場所に行かないんだから、何も問題はないだろう」
そんなこと知らない。そしてここは2つの意味で無名だから、冠してもいない。
「……あっそ」
イサナの手から妙に外気と調和した温度の缶を受け取って、カシュッと音を立てて開ける。さてはこれ、元々温かかったやつだろう。
どこから出したのか、彼女も同じ銘柄の缶を出してプルタブを起こした。小気味良い音が小さく聞こえる。
「にしても、意外だな。日向が缶コーヒーを好むのは」
「……好まないと思って持ってきたの?」
少し笑ってしまう。今日はずっと難しい顔をしていたからか、頬の筋肉が強張っているのが分かった。
「大人になるとさ、嗜好品……それこそお菓子とか、ある程度自由に買えるようになるじゃん」
「……そうらしいな」
「でも妙に駄菓子が恋しくなること、偶にない? 俺にとってはそれに近い感覚なのかも」
ふぅんと興味無さげに頷いて、イサナが缶を傾ける。俺も彼女を真似てコーヒーを飲むと、苦味と甘さが俺の心を少しずつ和らげていった。少し、不思議なくらいに。
「……ありがとね、これ」
「気が向いたから来ただけだ」
コーヒーの香りがする。
それを感じながら、ふっと笑った。
「なぁ日向。気になっていたんだが」
「何」
「どうして少年と少女には透夏と呼ばせるんだ? 日向で良いだろう。午前中に来る常連客は皆そう呼んでいることだし」
少し意外だった。イサナが人の呼び名を気にしているとは思っていなかったから。
「……もう10年くらい前かな。幽霊の友達がいたんだけど」
一蹴される想像をしていたけど、彼女は何も言わなかった。
「彼、生きていた時の記憶がなくてね。だから俺が『透夏』って名前を付けたんだ。最終的に彼は成仏したんだけど、できることなら……彼が生きている間に、俺で言うこの店みたいな、居場所があったら良かったのにって思って」
僅かに顔を上げると、イサナは真っ直ぐに俺の方を見ていた。
「……杠さんからここを譲り受けた時に、それを思い出してさ。それを忘れないように、誰かの居場所の一つになれるように、『透夏』って、彼の名前を呼んでもらうことにした」
ふぅん、とイサナが口の中で呟く。訊いてきた癖に、あまり興味がありそうな反応には見えなかった。
「日向らしくないな。過去に縋るなんて」
「縋るって何だよ。てか、これを聞いたらお前も透夏って呼んでくれるのかと思った」
「何を言っている。お前は日向だろう」
当然のように言われて、目を瞬かせてしまう。
何だよ。お前の本名は、教えてくれない癖に。
それを口に出したら何かが崩れてしまいそうで、黙っておいた。
時計の秒針の音がする。心地良い静けさを切り裂くように、唐突にバイブレーションの音がカウンターを這うように聞こえてきた。
「……電話。鳴ってるよ」
「いや、良い。出たくないんでな」
机の上に投げ出されていたイサナのスマホを、彼女がぱっと取り上げる。光る液晶に浮かび上がる『母親』という文字が、一瞬見えた。
「……そうだ。何か飲む?」
立ち上がってそう言った俺を見て、イサナが不思議そうに首を傾げた。
「何を言っている。閉店後なんだろう?」
「身内枠だって自分で言ったじゃないか」
何かしていたいというのが本音だったけど、それを言うのは何だか癪だ。
「じゃああれ。今日お前が飲んでいた」
「ココア?」
「それだ」
維月と言いイサナと言い、なんでみんなココアの名前をど忘れするんだろうか。可愛らしい音感だから耳に残ると思うのだけど。
「疲れてる時に甘いもの食べたり飲んだりすると、なんかほっとするよな。生きてるって感じがする」
「何だそれ」
イサナが少し笑った気配があった。
「生きてるって感じ、か。……なぁ日向。私はそもそも、生きることにそこまで執着がないんだ。面倒っていう感覚の方が強い」
振り返る。彼女は椅子に横向きに座って、真っ直ぐ前を向いていた。手の中にあるスマホはもう既に死んだように静まり返っている。『母親』。さっき一瞬見えたその無機質な登録名が、脳裏にこびり付いていた。
「家族の繋がりなんて、周りの執着があれば完全に切ることなんてなかなか難しいだろう? この世に縁切り屋が居れば良かったんだけどな」
普段なら、聞き流したかもしれない。
でも彼女のふわっと消えそうな雰囲気が、俺にその行動を許さなかった。
「……イサナ、」
「イサナじゃない」
少し驚く。名乗るほどの名前はない。イサナとでも呼んでくれ。いつもそう言っていたのは、彼女の方だった。
「小春だ。……似合わんだろう。どうせならこんな不相応な名前じゃなくて、くじらみたいな雄大な名前が良かった」
ふ、と笑ったような声が聞こえた。
勇魚。くじらの古名ですよね。
いつかの星來の声が、耳の奥に蘇る。
「……小春」
ぴくっとイサナの肩が震えた。
やっぱり、彼女の名前じゃないか。
「小春」
もう一度ちゃんと呼ぶと、彼女がゆっくりと振り返った。少し笑ってしまう。
「似合ってる。良い名前だ。暖かくて、優しい」
一瞬、彼女の双眸が揺らいだように見えた。
「……勘違いしているようだが」
ふっと笑う。何だかすごく、悲しそうに。
「私は、優しくなんてないぞ」
「……これを見てもか?」
空になった缶を軽く振って見せる。それを見て、イサナはまた悲しそうに笑った。
「日向、お前はきっと……白昼夢でも見ているんだ」
こんな日暮れ時に何を言っているんだ、と思う。白昼に見る夢なんて意味ではないと分かっていても、そう言ってしまいたかった。



