あかりもり

「おはようございます」
私が声を掛けると、カウンターに向かっていた透夏さんが私の方を振り向いて笑った。
「おはよう。あれ、維月は?」
「もう少ししたら来るかと。……それ、何の本ですか?」
彼の手元にあった文庫本を指差して問うと、あぁこれ? と透夏さんもそれを指差す。
「なんか前に賞取って話題になったらしいから古本屋で買って来た。星來も本読むの?」
「はい。……一般常識に欠けてるからもっと取るに足らないような情報を頭に入れろって維月に言われて、小説を読むようになって。今は娯楽として好きです」
はは、と透夏さんが声を上げて笑った。
「良いね。読み終わったら貸そうか?」
「良いんですか?」
私の表情の機微を読み取ったらしく、透夏さんが嬉しそうに頷いた。この人は、本当に人をよく見ている。
「おはようございます。あれ、それ何の本ですか?」
「あ、おはよう維月。古本屋で買ったんだ」
「良いですね。星來読ませてもらったら?」
「それを今お願いしたところ」
一緒にいると言動だけでなく思考回路まで似てくるんだろうか。
「僕と星來が読み終わった後で良ければ維月も読む?」
「良いんですか?」
「勿論。あれそういえば、2人は住民票って移したんだっけ?」
「はい。2月半ばに、星來と一緒に」
「良かった。あ、ゴミ出しお願いしても良い?」
「分かりました」と頷いて、維月と並んで歩き出す。ここでの仕事も大分慣れてきた。午前中は比較的忙しいけど、昼からは日によって暇な時もあるというようなリズムが掴めたのが大きいのだろうか。色々なバイトを渡り歩いてきた上、要領が良い維月が隣にいるのもありがたかった。
「あの本、前に賞獲ったらしいんだけどさ。維月知ってる?」
「知ってるよ。確かあの作家さんのデビュー作だったとかで、かなり話題になったやつ」
「へぇ」
世界は、机に向かっていた時には知らなかったことで溢れている。私が思っていたよりも、ずっと。

維月と一緒に階段を登ると、眩しい初夏の日差しが目に染みた。
「最近暑くなってきたね」
「そうだな。冬が恋しい」
「恋うのが早いよ」
少し笑ってしまう。
夏か。そういえば夏祭りって行ったことがない。学校の行き帰りに遠くから眺めた記憶と、小説の場面の記憶がぼんやりと混在しているせいで、妙に赤い灯だけが印象に残っている。
「維月はかき氷って食べたことある?」
「うん」
「良いなぁ。私食べたことないんだよね」
しゃりしゃりとしたそれを食べてみたいと思い始めたのがいつだったか、諦める方が楽だと考えて忘れてしまったのがいつだったか、もうはっきりとは思い出せない。
「マジ? じゃあ今年の夏にでも夏祭りとか行こうぜ、透夏さんも誘って」
嫌味に聞こえるかもしれないと恐れた羨望も、彼は真っ直ぐに受け取ってくれる。それが嬉しくて、ありがたくて、やっぱり少しだけ羨ましかった。笑って「うん」と頷くと、維月も楽しそうに笑う。
「あ、ねぇ維月」
声を掛けながら、急に足を()めたように見えた彼の方を振り返る。見上げたその表情に、驚いた。衝撃と、戦慄。
その両方が混ざり合ったような表情で、維月は一点を見つめている。視線の先には、1組の男女がいた。同年代の人間を思い浮かべると、私の父と母が浮かぶような年頃。
「どうしたの」
「……ごめん」
維月の声が、掠れていた。
「これさ、頼んでも良い?」
一緒に来てくれてはいたけど、集積所に持っていくゴミの量は私の両手に容易く持てる程だ。不都合はない。頷いて見せると、維月はもう一度「ごめん」と言って階段を駆け降りて行った。
知り合い?
そう聞き忘れたことに、ふと気付いた。

「ただいま戻りました」
声を掛けると、透夏さんと維月が揃って振り返った。
「おかえりー」
「おかえり」
維月は見るからに元気がない。
「星來、さっきごめんね。ありがとう」
「ううん。……知ってる人?」
透夏さんには既に話したようで、透夏さんの横顔には特に動揺も見えてこない。一瞬の静寂が、私たちを包み込んだ。
「……父親と、母親」
「……そう」
まぁそんなところだろうな、という思いと、なんで来たんだろう? という疑問が、頭の中にぐるぐると渦巻いている。維月のことを毛嫌いしていたなら、探しにだか連れ戻しにだか知らないけど、来なければ良いのに。
「……すみません、透夏さん」
「維月が謝ることはないでしょ」
透夏さんがふわっと笑った。その笑顔が眩しくて、暖かい。
「そういえば、星來の親は今の君らの居場所知ってるんだっけ?」
「住民票移した時に向こうに通知が行っている可能性はありますけど……スマホ置いてきちゃったし、電話帳も出てくる時に捨てたので連絡は取れないです」
「わぁ」
「変なところで思い切り良いよな、星來」
維月が呆れ半分の表情で呟いて、私も少し笑ってしまった。我ながらそう思う。
「維月の方は? 星來と同じ?」
「俺は一応スマホ持ってはいるんですけど……連絡拒否されてるので話せない上に、この前解約されて使えなくなってますね。ここに来たばかりの頃に一度公衆電話から掛けたら、名乗った瞬間切られました」
「わぁ」
透夏さんのリアクションがさっきと全く同じだ。どう反応したら良いのか分からないのはよく理解できた。
「ごめん、無知による純粋な疑問なんだけど。それなのに、なんで探しに来るの?」
「分からないけど、金か世間体のどっちかじゃないですか」
「……ふぅん」
星來。星來。
私を呼ぶ母の声が、耳の奥に蘇る。あの人はいつから歪み始めていたのだろう。
賢い貴女は他の子とは違うのだから。
低脳な彼らとは違うのだから。
賢く立派な子になって、私に貴女を誇らしく思わせてちょうだい。
貴女がそうしてくれたら、私はずっと貴女のことを大好きでいてあげられるから。
だから、頑張って。
そう言われて、頑張った。母を喜ばせるために。母に、愛し続けてもらえるように。
「頑張る」に終わりがないことに気付いたのは、いつだっただろう。
貴女の将来に役立つこと以外に興味を持つ必要はない、寧ろ低脳な文化を貴女が知るべきではない、と言われ始めたのは、いつからだっただろうか。
母ではなく世間の言う「賢い」ことが、「試験で高得点を取り続ける」ことと必ずしもイコールではないと知ってしまったのはいつだっただろう。
母の期待と教えと重圧で、息ができなくなってきたのは?
「低脳」な彼らが、羨ましいと思い始めたのは?
全てを諦めて、母の手足のように動くようになったのは?
覚えていない。
覚えていたくなくて、忘れてしまったのかもしれなかった。
「星來」
顔を上げた。
維月と透夏さんが、いつの間にか心配そうに私の顔を見ている。
「どうした? 大丈夫か?」
小さな町の小さなスタジオの経営者と、そこの従業員。母が見たら、また「低脳」と切り捨てるような人々なのだろう。
でも、ここが。
私を私で居させてくれる場所だ。
「うん、もう大丈夫。ありがとう」
そう言って、笑う。少し不思議そうに首を傾げる2人を見て、また笑ってしまった。
普段なら聞き取れないような階段を降りてくる足音が、私の耳に届いたのはその時だった。
維月の横顔が、一瞬にして凍りつく。
「こっち」
彼の手を引いて、店の奥の方に向かった。握ったそれが、微かに震えているのが分かる。
からん。
「いらっしゃいませ」
透夏さんの声。
「すみません。私、夜野といいます。ちょっとお尋ねしたいのですが」
深く通る男の人の声が聞こえた瞬間、隣にいた維月の肩がびくっと跳ねた。
「はい。……あ、ちょっとすみません」
透夏さんの足音が、私たちの方に近付いてくる。
「星來」
「……はい」
「ごめん、物置の整理頼んでも良い?」
そこなら昨日、維月と私で片付けたばかりだ。
「分かりました」
透夏さんがにこっと笑う。彼の笑顔は、いつも通りだ。
「……すみません、お待たせしました。お尋ねになりたいこと、というのは……」
空気が抜けるみたいに壁際にへたり込んでしまった維月の隣に座って、その背中をそっと撫でた。
もしもあの人たちがこの人を連れて帰ると言ったら、私はどうするんだろう。
我儘を言って困らせることはできないだろうな、と思う。そうしたいと思っても、身体が動かないのは容易に想像できた。
いつも私を導いてくれる、彼の月明かりみたいな笑顔が思い浮かぶ。ああやって、この人にはいつでも笑っていて欲しい。
でも、と頭の中で呟く。彼のこの震えを見たら、私があっさりと引き下がることも、また想像できなかった。
維月が居た家の事情を、私は知らない。
でも他でもない彼がこんな風に怯えている人たちの前に、彼を帰すことなんて、私はできそうにない。
1人になりたくない、という我儘も本当は、少しだけあるんだろう。少しだけ。