「維月さん、こんにちは」
振り返ると、綴が扉を開けて店に入ってくるところだった。
「綴。久しぶりだね」
「2週間振りは久しぶりの域なんですか?」
綴が可笑しそうに笑う。言われてみれば、そのくらいしか経っていないのか。
「まぁ、月跨いでるし。久しぶりってことにしようよ」
「1月終わるのが早過ぎるんですよ」
「それは……確かに」
俺の言葉に楽しげに笑った綴が、「あ」と呟いて俺の背後を見遣った。
「星來さん。透夏さん。こんにちは」
久しぶり、と星來が笑って、透夏さんはにこにこしながら手を振る。
「そういえば透夏さん、イサナとは仲直りしたんですか?」
「だからそもそも喧嘩してない」
困ったように、少し拗ねたように言う透夏さんが、何だからしくなくて笑ってしまう。まぁ数日前普通に話しているのを見ているから、きっと大丈夫だろう。
「この前イサナさんが来た時普通に話してたから、仲直りした判定で良いと思うよ」
星來が歌うように言った。此奴、絶対どこか面白がっているだろう。
「そう。あ、そういえば今日そのイサナは? 来ました?」
「来てない。……でもどうだろう、今日来るかな。何か用事?」
俺の言葉に、「用事ってほどでもないんですけど」と綴が背負っていた鞄の中を探る。
「新しい曲ができたので……よっと。見せようかなと思いまして」
「相変わらず仕事が早いねぇ」
半分呆れたように言う透夏さんに、綴が得意気に笑った。
「まぁ、のんびり待ってたら?」
「そうします」
そう言う星來に頷いて、綴が続ける。
「あートランプやりたい」
「良いね。やる?」
透夏さんが一番乗り気なのが可笑しくて、星來と顔を見合わせて笑ってしまった。
からん、という音がした。
「すみません、今日もう閉店なんです」
そう言いながら振り返ると、黒い2人の人影があった。誰だろう。シルエットは見慣れない。
「夜分に失礼します。私、──県警の山根と申します。此方は鈴木です」
警察? 何かやらかしただろうか。若しくは詐欺の注意喚起か。
「少々お時間よろしいでしょうか。責任者の方は今いらっしゃいますか?」
「……あ、はい。呼んできま」
呼んできますね、と言い掛けたところで、「私です」という声が真後ろから飛んできた。驚いて振り返ると、透夏さんが立っている。
「夜分に失礼します。私ども、──県警の……」
同じような説明を彼らが繰り返しているうちに、星來と綴も近くにやってきた。心配そうだけど、それ以上に何だろうという疑問があるような表情。
「昨日の朝、海崖公園付近で女性の遺体が見つかりまして」
山根だか鈴木だかが続ける。
「身元は既に確認されていますが、彼女がよくここを訪れていたという情報があったので、お話を伺っております。イサフシコハルさんという方、ご存知ですか?」
誰。そもそもどういう字を書くんだ。
知らない、と首を横に振ろうとしたところで、透夏さんの横顔が俺の今の感情と大きく乖離したものであることに気が付いた。
「………小春?」
蚊の鳴くような声。
「ご存知ですか?」
「…………苗字は知らないのですが。同名の常連客なら、います」
透夏さんの顔色が悪い。小春というのが誰なのか、察しがついているようで言語化できない現状が恐ろしくて、もどかしかった。
「此方の方ですが。間違いありませんか」
ぺらっと音が鳴る。目を見開く。世界が、遠くなる。
水の中にいるみたいに、ゴボゴボという音だけが聞こえた。
………間違いないです。
隣にいるはずの透夏さんの声が、妙に遠く、離れて聞こえた。
ご親族の方では、ありませんよね?
……違います。彼女はただの常連なので。
水の中。
そんな感覚。
立ち話も何ですので、少し中でお話してもよろしいですか。
透夏さんが頷くのが、霞んだ視界の中に見えた。彼の口が動く。何か言っているんだろうというのは分かった。
「維月」
透夏さんの声を、再び耳が認識し始めた。いつも通り。そう聞こえるのが、痛かった。
「……はい」
「ごめん、綴のことお願いしても良い? 送ってもらえると助かる」
「わかりました」
声が掠れる。喉がからからに渇いていた。
星來と綴の方を振り返ると、2人がいない。1秒にも満たない間の後、床に座っているんだと気付いた。星來が綴の背中を静かに撫でている。
「綴」
彼が顔を上げた。蒼白なそれに少し驚いて、手を差し出しながら平静を装って言う。
「今日はさ、もう帰ろう」
握り返された手を掴んで、引っ張り上げるように立ち上がらせる。その手が氷のように冷たいことに、また驚いた。
綴と一緒に立ち上がった星來に「送って来るね」と声を掛けると、彼女は黙って頷いた。
「一緒に行く?」
「ううん、良いや。ここにいる」
うん、と口の中で呟いて頷くと、星來は店の奥の方に入って行った。透夏さんと警察の2人がカウンターで話している。
扉を開けると、身震いするほど冷たい風が頬を刺した。
なんで、という綴の声が聞こえた。
鯨伏小春。
馴染み深かったはずの彼女の本当の名前は、思っていたよりも暖かくて、遠かった。
「ただいま戻りました」
扉を開けると、片付けをしていたらしい透夏さんが振り返った。
「おかえり。警察の人たちはさっき帰ったよ」
「そうですか。……あれ、星來は?」
「あの子も先に帰った。維月も今日はもう上がったら?」
少し考えて、頷く。
「そうですね。片付け終わったら帰ります」
「それ、いつも通りだよね」
「そうとも言います」
透夏さんがちょっと笑った。釣られたように、俺も少しだけ笑ってしまった。
「そういえば透夏さん」
「ん?」
「イサナさんの……小春さんって名前、知ってたんですね」
透夏さんの目が一瞬驚いたように見開かれる。
「………うん、まぁね」
「なのに、警察の人には意地でも『彼女』って。逆に不自然でしたよ」
透夏さんの笑い声が小さく聞こえた。
「でもほら彼奴、本名で呼ばれるの嫌がるから」
優しいなぁ、と思う。
その優しさが痛くて、どうしようもないくらいに苦しい。
「……透夏さん」
「なに?」
「透夏さんは、ちゃんと泣けますか」
秒針の音が、俺と心優しい雇い主の間を通り抜けていく。
「……さぁ。それ、どう答えるのが正解なの?」
透夏さんの笑顔が、ほんの少しだけ歪む。悲しそうに。
「俺に訊かないでくださいよ」
笑ってしまう。泣きたくなる。息を吸い込んで、続けた。
「さて。戸締まり終わったので、俺も上がります。おつかれさまでした」
「うん、おつかれさま。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます。透夏さんも、お気を付けて」
「うん」と透夏さんが頷いた。
からん、という鈴の音が、また耳に残る。
鍵を開けて、扉を開いた。
「……ただいま」
部屋の中が暗い。ものが少ないから何かにぶつかる心配はあまりないけど、星來が既に帰っているはずなのに真っ暗な部屋が不自然だった。中に入ると、床に座った人影が微かに見えた。
「……星來?」
カーテンを透かして、月明かりが弱々しく部屋の中を照らしている。
膝を抱えて座っている彼女の隣に腰を下ろす。その肩が細かく震えていた。
「せいら、」
声を掛けながらその背中に手を置こうとした瞬間、星來の細い体躯がゆらりと揺れた。
「……っ」
仰向けに倒れそうになって、慌てて床に手を突く。僅かに目を見開く。遅れて感じた彼女の温かさが、俺の凍てついた心をじんわりと融かしていくのが分かる。
星來は震えていた。泣いていた。
ずきりと胸が痛むと同時に、すごく安心してしまう。彼女にちゃんと、泣ける場所があること。俺にもそれが、ちゃんとあること。
星來の細くて痛い声が、耳元で聞こえる。床に突いていない方の手で、彼女の背中をそっと撫でる。ぎゅうっと痛いくらいに抱きしめられたその力に、安堵してしまう。
最後に映画館に行ったのはいつだろう。
あの暗い空間が思い出される。
映画館が暗いのは、ここが今暗いのと同じ理由からかもしれないと思う。
隣で泣いている顔が見えないように。
泣いている顔が見られないように。
安心して泣けるように。
あの人と最後に交わした言葉すらよく覚えていないのが、どうしようもないくらいに虚しい。
悲しさと、寂しさと、虚しさと温かさと安心感と。
人が泣く理由は一つじゃないんだな、なんてことを、冷たい月明かりの下で泣きながら考えていた。
振り返ると、綴が扉を開けて店に入ってくるところだった。
「綴。久しぶりだね」
「2週間振りは久しぶりの域なんですか?」
綴が可笑しそうに笑う。言われてみれば、そのくらいしか経っていないのか。
「まぁ、月跨いでるし。久しぶりってことにしようよ」
「1月終わるのが早過ぎるんですよ」
「それは……確かに」
俺の言葉に楽しげに笑った綴が、「あ」と呟いて俺の背後を見遣った。
「星來さん。透夏さん。こんにちは」
久しぶり、と星來が笑って、透夏さんはにこにこしながら手を振る。
「そういえば透夏さん、イサナとは仲直りしたんですか?」
「だからそもそも喧嘩してない」
困ったように、少し拗ねたように言う透夏さんが、何だからしくなくて笑ってしまう。まぁ数日前普通に話しているのを見ているから、きっと大丈夫だろう。
「この前イサナさんが来た時普通に話してたから、仲直りした判定で良いと思うよ」
星來が歌うように言った。此奴、絶対どこか面白がっているだろう。
「そう。あ、そういえば今日そのイサナは? 来ました?」
「来てない。……でもどうだろう、今日来るかな。何か用事?」
俺の言葉に、「用事ってほどでもないんですけど」と綴が背負っていた鞄の中を探る。
「新しい曲ができたので……よっと。見せようかなと思いまして」
「相変わらず仕事が早いねぇ」
半分呆れたように言う透夏さんに、綴が得意気に笑った。
「まぁ、のんびり待ってたら?」
「そうします」
そう言う星來に頷いて、綴が続ける。
「あートランプやりたい」
「良いね。やる?」
透夏さんが一番乗り気なのが可笑しくて、星來と顔を見合わせて笑ってしまった。
からん、という音がした。
「すみません、今日もう閉店なんです」
そう言いながら振り返ると、黒い2人の人影があった。誰だろう。シルエットは見慣れない。
「夜分に失礼します。私、──県警の山根と申します。此方は鈴木です」
警察? 何かやらかしただろうか。若しくは詐欺の注意喚起か。
「少々お時間よろしいでしょうか。責任者の方は今いらっしゃいますか?」
「……あ、はい。呼んできま」
呼んできますね、と言い掛けたところで、「私です」という声が真後ろから飛んできた。驚いて振り返ると、透夏さんが立っている。
「夜分に失礼します。私ども、──県警の……」
同じような説明を彼らが繰り返しているうちに、星來と綴も近くにやってきた。心配そうだけど、それ以上に何だろうという疑問があるような表情。
「昨日の朝、海崖公園付近で女性の遺体が見つかりまして」
山根だか鈴木だかが続ける。
「身元は既に確認されていますが、彼女がよくここを訪れていたという情報があったので、お話を伺っております。イサフシコハルさんという方、ご存知ですか?」
誰。そもそもどういう字を書くんだ。
知らない、と首を横に振ろうとしたところで、透夏さんの横顔が俺の今の感情と大きく乖離したものであることに気が付いた。
「………小春?」
蚊の鳴くような声。
「ご存知ですか?」
「…………苗字は知らないのですが。同名の常連客なら、います」
透夏さんの顔色が悪い。小春というのが誰なのか、察しがついているようで言語化できない現状が恐ろしくて、もどかしかった。
「此方の方ですが。間違いありませんか」
ぺらっと音が鳴る。目を見開く。世界が、遠くなる。
水の中にいるみたいに、ゴボゴボという音だけが聞こえた。
………間違いないです。
隣にいるはずの透夏さんの声が、妙に遠く、離れて聞こえた。
ご親族の方では、ありませんよね?
……違います。彼女はただの常連なので。
水の中。
そんな感覚。
立ち話も何ですので、少し中でお話してもよろしいですか。
透夏さんが頷くのが、霞んだ視界の中に見えた。彼の口が動く。何か言っているんだろうというのは分かった。
「維月」
透夏さんの声を、再び耳が認識し始めた。いつも通り。そう聞こえるのが、痛かった。
「……はい」
「ごめん、綴のことお願いしても良い? 送ってもらえると助かる」
「わかりました」
声が掠れる。喉がからからに渇いていた。
星來と綴の方を振り返ると、2人がいない。1秒にも満たない間の後、床に座っているんだと気付いた。星來が綴の背中を静かに撫でている。
「綴」
彼が顔を上げた。蒼白なそれに少し驚いて、手を差し出しながら平静を装って言う。
「今日はさ、もう帰ろう」
握り返された手を掴んで、引っ張り上げるように立ち上がらせる。その手が氷のように冷たいことに、また驚いた。
綴と一緒に立ち上がった星來に「送って来るね」と声を掛けると、彼女は黙って頷いた。
「一緒に行く?」
「ううん、良いや。ここにいる」
うん、と口の中で呟いて頷くと、星來は店の奥の方に入って行った。透夏さんと警察の2人がカウンターで話している。
扉を開けると、身震いするほど冷たい風が頬を刺した。
なんで、という綴の声が聞こえた。
鯨伏小春。
馴染み深かったはずの彼女の本当の名前は、思っていたよりも暖かくて、遠かった。
「ただいま戻りました」
扉を開けると、片付けをしていたらしい透夏さんが振り返った。
「おかえり。警察の人たちはさっき帰ったよ」
「そうですか。……あれ、星來は?」
「あの子も先に帰った。維月も今日はもう上がったら?」
少し考えて、頷く。
「そうですね。片付け終わったら帰ります」
「それ、いつも通りだよね」
「そうとも言います」
透夏さんがちょっと笑った。釣られたように、俺も少しだけ笑ってしまった。
「そういえば透夏さん」
「ん?」
「イサナさんの……小春さんって名前、知ってたんですね」
透夏さんの目が一瞬驚いたように見開かれる。
「………うん、まぁね」
「なのに、警察の人には意地でも『彼女』って。逆に不自然でしたよ」
透夏さんの笑い声が小さく聞こえた。
「でもほら彼奴、本名で呼ばれるの嫌がるから」
優しいなぁ、と思う。
その優しさが痛くて、どうしようもないくらいに苦しい。
「……透夏さん」
「なに?」
「透夏さんは、ちゃんと泣けますか」
秒針の音が、俺と心優しい雇い主の間を通り抜けていく。
「……さぁ。それ、どう答えるのが正解なの?」
透夏さんの笑顔が、ほんの少しだけ歪む。悲しそうに。
「俺に訊かないでくださいよ」
笑ってしまう。泣きたくなる。息を吸い込んで、続けた。
「さて。戸締まり終わったので、俺も上がります。おつかれさまでした」
「うん、おつかれさま。気を付けて帰ってね」
「ありがとうございます。透夏さんも、お気を付けて」
「うん」と透夏さんが頷いた。
からん、という鈴の音が、また耳に残る。
鍵を開けて、扉を開いた。
「……ただいま」
部屋の中が暗い。ものが少ないから何かにぶつかる心配はあまりないけど、星來が既に帰っているはずなのに真っ暗な部屋が不自然だった。中に入ると、床に座った人影が微かに見えた。
「……星來?」
カーテンを透かして、月明かりが弱々しく部屋の中を照らしている。
膝を抱えて座っている彼女の隣に腰を下ろす。その肩が細かく震えていた。
「せいら、」
声を掛けながらその背中に手を置こうとした瞬間、星來の細い体躯がゆらりと揺れた。
「……っ」
仰向けに倒れそうになって、慌てて床に手を突く。僅かに目を見開く。遅れて感じた彼女の温かさが、俺の凍てついた心をじんわりと融かしていくのが分かる。
星來は震えていた。泣いていた。
ずきりと胸が痛むと同時に、すごく安心してしまう。彼女にちゃんと、泣ける場所があること。俺にもそれが、ちゃんとあること。
星來の細くて痛い声が、耳元で聞こえる。床に突いていない方の手で、彼女の背中をそっと撫でる。ぎゅうっと痛いくらいに抱きしめられたその力に、安堵してしまう。
最後に映画館に行ったのはいつだろう。
あの暗い空間が思い出される。
映画館が暗いのは、ここが今暗いのと同じ理由からかもしれないと思う。
隣で泣いている顔が見えないように。
泣いている顔が見られないように。
安心して泣けるように。
あの人と最後に交わした言葉すらよく覚えていないのが、どうしようもないくらいに虚しい。
悲しさと、寂しさと、虚しさと温かさと安心感と。
人が泣く理由は一つじゃないんだな、なんてことを、冷たい月明かりの下で泣きながら考えていた。



