あかりもり

氷のように冷たい空気が、静かに頬を撫でていく。
遥か遠くに、水平線が横たわっている。
馴染みの公園のベンチに腰掛けて空を見上げると、鳶が円を描くようにゆるゆると飛んでいるのが見えた。
「おい」
隣に座っていた人物から急に声を掛けられて、びくっと身を震わせる。
「知り合いに会って、挨拶すらなしか」
「……びびった。あんたか」
彼女が──イサナが、俺の驚いた顔を覗き込むように眺めて、愉快そうに笑った。
「この私に気付かないとは、童も大層な人間になったものだな」
「悪かったって。あんた、もっと五月蝿(うるさ)いイメージだから」
「は?」
「何でもない」
子供のように怒る彼女が少し可笑しくもあり、呆れもしてしまう。
「あ、そうだ。明けましておめでとう」
思い出した拍子に軽く頭を下げると、イサナは不思議そうに目を瞬かせた。
「……もうそんな時期か?」
「……嘘でしょ? もう年越しのテレビ放送されてから3日経つよ」
「最近あまり家に帰っていないからな。知らなかった」
なんで?
「なんで。親と揉めてたりするの?」
「まぁな。でも、今言った家というのは私1人が住んでいる方だ」
「……余計になんで」
「逃げ場がないじゃないか」
誰かと一緒も独りも、逃げ場がないだろう?
彼女の口が静かに動く。らしくないな、と思った。
「……ごめん、よく分かんない」
「お前には理解できまいと思うから喋っているんだ。ありがたく聞き流しておけ」
「雑っ」
大袈裟に顔を顰めて見せると、イサナが声を上げて笑った。
「互いの事情を碌に知らないからこそ、話せることだってあるじゃないか。童、この後暇か? 暇だろう? 付き合え」
「……それ、俺に拒否権ないよね」
「そうとも言うな」
澄ました顔の彼女に、盛大に溜息を吐く。幸か不幸か、この後の俺に予定はない。嘘を吐いても、すぐに見抜かれるのは目に見えていた。
「……どこ行くの」
「さぁな。まぁ、ただの散歩だ。警戒することはない」
「……あんまり遠くは嫌だよ」
「無論だ」
ほんとかよと思いながら、既に立ち上がったイサナを小走りで追った。

「そういえば、この前透夏さんと喧嘩したって聞いたけど。あの人怒らせるって何事?」
何かと思ったと言う維月さんに、「喧嘩はしてないよ」と笑っていた透夏さんが思い出される。
「喧嘩というほどのものでもないが。彼奴はよく不平不満を垂れるじゃないか、珍しくもない」
「いや、……イサナ限定なんじゃないの」
「何だそれは。不名誉極まりない」
「俺に言うなよ」
全く。仲が良いのか悪いのか、分からない2人だ。
「で? なんで喧嘩したの」
「だから喧嘩じゃない。そして止めておけ、大人の(いさか)いの理由なんて大概が虚しくなるほどどうでも良いものだ」
「……透夏さんはともかく、あんたのこと大人として見たことないかも」
「おい」
ぺしっと音を立てて頭を叩かれた。全然痛くないのが、少し愉快まである。「いった!」と大袈裟に声を上げると、貧弱者めとイサナが笑った。
「それなら訊くが童。……お前に私はどう見えているんだ」
え? という声が俺の口から零れる。
歩き出してから初めて、イサナとちゃんと目が合ったことに気付く。
「……変なやつ」
「あ?」
「あとは」
素直に言うのは癪だ。でもここで誤魔化すのは、もっと癪だ。
「恩人」
「……何故だ?」
彼女が、驚いたように目を見開く。変なことを訊くものだ、分かり切っているだろうに。
「何故って。俺の居場所を作ってくれたのはあんたでしょ。独りは寂しいって認められたのは、あんたのお陰だ」
数瞬の間の後に顔を上げて、僅かに驚く。彼女の双眸が、ほんの少しだけ優しげな光を宿して笑っていた。
「……私はな、童」
空を見上げる。鳶が飛んでいる。
「あくまで水先案内人だ。付いて行くことを決めたのも居続けることを選んだのも、お前だろう」
くしゃっと頭を撫でられて、子供じゃないんだぞとその手を払い除ける。どこか嬉しそうなイサナに、釣られて笑ってしまった。
「……あんた、素直に人を褒めると気持ち悪いな」
頭の上に再びすっと手が伸びてきて、もう一度撫でられる。妙だと思っていたら、ギリギリと思いっきり頭を鷲掴みにされた。
「痛い。痛い痛い痛い」
俺の大声にぱっと手を離して、悪戯っぽく彼女が笑う。
「『恩人』を馬鹿にするようなことを言うからだ」
「うわ、言わなけりゃ良かった」
ふわりと風が吹く。その風の中で、真っ直ぐな笑い声が聞こえた。

視界の隅に自販機が見えて、静かにスピードを落とした。イサナとこうして話す機会は何だかんだで珍しいから楽しさはあるけど、やっぱり寒さには勝てない。
「ごめん、飲み物買っても良い?」
「駄目だと言ったらどうするんだ」
「え? 押し切る」
好きにしろ、とイサナが笑った。
ピッという電子音と共に、ガタンという振動が伝わってくる。
「あんたも何か飲む?」
(とお)近く年下の餓鬼に奢られるのは癪だ。自分で買う」
遂に童を通り越して餓鬼になった。コーンポタージュの缶を音を立てて開けながら、「へぇ」と呟く。
「イサナっていま幾つなの?」
「言ってなかったか? 日向と同い年だ」
え? と呟いてイサナの方を見ると、「女に歳を尋ねるのは失礼だと習わなかったのか」と呆れたような顔をされた。答えておいて何を言っているのか。
「世間知らずな餓鬼で悪かったな。てかさ、それ透夏さんは知ってるの?」
何を言うとでも言いたげに、ペットボトルの蓋を開けながらイサナが微かに首を傾げる。真冬の時期、わざわざ水に金をかける人の気が知れない。
「知らないんじゃないか。言ってないからな」
「……絶対言う人間違えてるって」
「だってお前、人の素性や年齢なんて才能や技量を目の前にしたらどうだって良い(たち)だろう?」
否定できないのが悔しい。それを見抜かれた上で明かされたのだと考えると、負けた気がして余計に悔しい。
黙っていると、「返す言葉もないか」とイサナが追い打ちをかけてきた。「煩い」と辛うじて答える。
「ところで、水で良かったの? あったかいやつとかじゃなくて」
「自販機の飲み物は安っぽい味だから好かんのだ。買うのは水ばかりだな」
「うっわ贅沢」
ほっとけ、と微かに笑って呟いたイサナが、また静かに歩き出した。俺も慌てて後を追う。
「ねぇイサナ」
思い立って声を掛けると、肩越しに彼女が振り返ったのが見えた。
「今年の抱負は?」
「……何だ急に」
「別に。良いでしょ、新年だし」
イサナが少し考えるように遠くを見て、俺を見る。
「月並みだが。私自身として在ることだ」
「……あんたが自分を押し殺して生きてる瞬間なんてあるの?」
「そりゃあるさ。舐めてるのか」
「舐めてはない」と言うと、「童はどうなんだ?」と質問が返ってきた。さては話聞いてないだろう。
「俺? ……音楽と、たくさん向き合う」
ははっとイサナが楽しそうに笑った。
「それでこそ童だ。……なぁ綴」
顔を上げてから、ふと気付く。名前覚えてたのか。
「自由で在りたいものだな」
根っからの自由人に言われたくない、とは何となく口にできなくて、黙っていた。