「日向くん」
閉店後、カウンターチェアに座ってカフェラテをスプーンでかき回していた俺に、杠さんが声を掛けてきた。
「はい」
「日向くんはさ、君にこの店を譲るよって僕が言ったらどう思う?」
は?
「エープリルフールを疑うか、そうでなければ……絶っっ対に言う相手を間違えてるなって思います」
杠さんが愉快そうに笑った。
「いやぁ、実は割と冗談抜きで店を譲る人を探していてね。日向くん、どう?」
「だから、訊く相手を間違えてますって」
俺も笑顔を浮かべながら、でも本気で言う。俺がここで働き始めて、もうすぐ3年ほどになるだろうか。22の時に音楽で食べていくのを諦めて、そこから1年くらいはふらふらしていた。替えがきく仕事で働いて、気まぐれに歌って。そしてここに流れ着いて、店主の杠さんに拾ってもらって、今に至る。なんて根性のない経歴なんだろうか。
「日向くん、真面目に働いてくれるし、何よりもこの店が大好きなんだろうって思わせてくれるからね。前から考えてはいたんだ」
確かにこの店は大好きだ。杠さんにも並々ならぬ恩を感じてはいる。でも、だからこそ。俺が? この店を?
「……杠さんは、どうするんですか? 他人にこの店を譲ったとして」
『俺に』とは絶対に言わない。だってきっと俺は、力不足だ。
「そうだなぁ……色々あるよ。ずっと1人で店やってたから、海外とか行ってみたい。まぁ、普通に働いててももうすぐ定年だしね」
え? という声が口から洩れる。思えば、杠さんの年齢を俺は知らない。
「僕、今年で60だよ」
「えぇーっ」
見えない。50代半ばくらいだとずっと思っていた。素直にそう言うと、「若く見られたい人は喜ぶのかもしれないけど」と杠さんが頭を掻いた。確かに年功序列が残っているコミュニティでは損をすることがあるのかもしれない。
「で、僕の年齢の話はどうでも良くてさ。まぁ今すぐ判断するのは無理だろうけど、ちょっと考えておいてくれる?」
「あ」と思い出したように呟いて、心優しく型破りな俺の雇い主は笑って続けた。
「人に譲るってことになったら、所有権も経営方針も全部その人に投げるから。売る物変えるも潰すもその人次第」
それは、良いのか。譲るというより体良く押し付けているようにも見える。
「……それ、譲るって言い方して良いんですか」
「うーん。人に譲ってしまえば僕は店仕舞いとかしなくて済むし、押し付けてるに近いかも」
認めたなぁこの人。
「……ちょっと考えても良いですか?」
「今の発言の後でよく検討に入れたね」
杠さんがそう言って笑う。同感ですと心の中で呟いて、俺も笑った。
冬の朝のテンプレートみたいに、凩の音が微かに聞こえる。
「おはようございます」
俺が声を掛けると、型破りな店主が顔を上げた。
「おはよう。今日寒いね」
「そうですね。……あ、杠さん」
「ん?」
「俺がこの店を引き継ぐってなったら、何をどうしたら良いんですか?」
杠さんが驚いたように目を瞬かせる。そんなに驚くなら、提案しなければ良いのに。
「……まじ?」
「まじです。俺、タチの悪い冗談嫌いなので」
真面目な顔をして言うと、ははっと楽しげに彼が笑った。
「知ってるよ。そうかそうか、ありがとう」
「……はい」
この人の笑顔には、魔力があると思う。だってこんなにも無鉄砲な、1年後どうなるかも分からない提案に乗ったばかりなのに。こんなにも、無条件に安心している。
この人みたいになりたいな。
もう今まで何度思ったか分からないことを、また思った。
「で、杠さん俺は何を……」
焦りが出ていることを自覚しながら再び問うと、杠さんはまた笑って言った。
「身構えてるみたいだけど、今までほぼ会計も発注も日向くんがやってくれてたでしょう? だからほぼ名義が変わるだけと言っても過言ではない」
確かに「面倒だからやっといてー」と丸投げされて作業してはいたけど。
「じゃあ、来週辺りに判子持って来て」
笑って続けた杠さんに、思わず盛大に溜息を吐く。
なんて型破りなんだろう。
型破りで、優しくて、食えない人だ。
「……あぁそれから、前から気になってたんですけど……ここって何の店なんですか?」
話題を変えた俺に、杠さんが何を言うとでも言いたげに首を傾げる。
「えー? ライブハウス兼音楽スタジオとかじゃない?」
「カフェの要素は何処へ?」
「え、音楽だけじゃ経営回らなくて飲み物出し始めただけだし、僕はカフェを作ったつもりはないよ」
「今やそれと機材レンタルが主な収入じゃないですか」
「でもほら、常に初心を忘れないって大事なことだと思って」
意地なのか駄々を捏ねているだけなのか、よく分からない。
あれやこれやと屁理屈を並べ続ける心優しく型破りな雇い主に、ふっと笑ってしまった。
「日向くん、この店引き継いだんだって?」
常連のご婦人方の1人がコーヒーを啜りながら話しかけてきた。この店は基本的にいつも空いているけど、平日の午前中にはこうして常連さんたちがやってくる。ありがたいことだ。
「はい。杠さん、引き継いで3日経ったら『大丈夫そうだねー』って言って来なくなりましたよ。ああいうのって最低でも1週間くらい来るものじゃないんですか」
文句を垂れる俺に、常連さんは軽やかに笑った。
「日向くんが頼れるから、あの人も気軽に引き継げたんでしょ。本当、良い子を捕まえたわ杠さん。人当たりは良いし、イケメンだし」
「本当にね。ここに来るだけで元気になれるわ」
そんなことを言われるのはここで働き始めるまで一度もなかったから、きっと贔屓目で見てくれているんだろうと気持ちだけ受け取っておく。
「僕を褒めても何も出ませんよ」
「そんなことないわよ」
「そうそう、若い人が話し相手になってくれるだけで嬉しいもの」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
彼女たちがそう言って笑う。「兄ちゃん」とカウンターの端の方から声を掛けられて、「はーい」と答える。兄ちゃんって歳でもないんだけど。
「ブレンドコーヒー一つちょうだい」
「かしこまりました」
杠さんが居ないこの店は予想以上に忙しいけど、予想以上に充実していた。顔見知りの人たちの井戸端会議を聞くのが苦痛じゃないのも、この商売では良かったのかもしれない。
昼を過ぎると、このスタジオは一気に閑散としてくる。機材を借りに来る人がぱらぱらと居るのと、週に2、3回数時間スタジオの場を借りに来る人が居るのを除いては、静かなものだ。
掃除を終えて暇を持て余していると、時計の秒針の音だけが妙に響いて聞こえる。こういう時、杠さんは思い切り良くオセロやトランプを広げて俺を遊びに誘ってくれた。その時は半分呆れていたけど、いざあの遊びがなくなると、少しだけ寂しい。
暇が高じて本を開く。ページをぱらぱらと捲っていると、バンと音を立てて唐突に扉が開いた。
「げ」
こんなにも乱暴に扉を開ける人間は1人しかいない。俺の不満気な声をよそに、彼女は勢い良く歩いて来て俺の目の前に座った。
「『げ』とは何だ日向。せっかくこの私が来てやったのに」
「……イサナ。扉の開け閉めはもっと丁寧にしろと何回言えば良いんだ」
「人が居る時にはもう少し丁寧に開け閉めするさ。この程度で壊れるショボい扉じゃないんだから良いだろう」
「俺が居るじゃないか」
「私がさっき言った人とは客のことだ。カフェオレ一つ」
「……はいはい」
立ち上がりながら思う。傍若無人を絵に描いたら、きっと彼女が出来上がるんだろう。
イサナ。本名不明。年齢不詳。俺が杠さんの下で働き始めて2年ほどの頃からしょっちゅう現れるようになった常連だ。常連と言っても、ふらっと数ヶ月姿を消すことも珍しくない風来坊。
嵐のような人、という形容がここまで似合う人間を、俺は他に知らない。杠さんは「彼女、詩の才能はすごいんだよ」と笑っていた。確かに彼女の詩はすごい。でもその傍若無人さが嫌いだと訴えたら、客の好き嫌いを口に出すんじゃないと真っ当に叱られた後、杠さんに言われた。
「でも彼女と喋ってる時の日向くん、良い感じに素が出てて僕は好きだよ。一人称も『俺』だし」
確かに客の前では「僕」と言うようにしている俺だけど、イサナの前ではどうも上手くいかず、早々に諦めてしまった。
「日向、そういえば店主殿から店を引き継いだらしいな。良かったじゃないか、好きにできる」
「当分は現状維持の予定だけどね」
そう返すと、イサナはつまらなさそうに溜息を吐いた。何だその反応。
「改革なんて今やってみろ、俺が過労で倒れるのも時間の問題だぞ」
「どうせ昼間は暇な癖に。あのな、大体引き継ぎと革命は紙一重というもので」
「何だそれ。朝はてんてこ舞いで大変なんだよ。あ、イサナここで働くか?」
「場所としては悪くないが、日向の部下というのが解せないから断る」
「ひど。ま、お前みたいな破天荒に来られても困るけど」
「そういえば、何の本読んでたんだ?」
イサナが唐突に話題を遮った。話を聞け。
「税金と法律について。最低限は頭に入れておけって杠さんがくれた」
「真面目か」
「放っとけ」
からん。
扉に付けてあるベルが音を立てて、俺とイサナは揃って扉の方を見た。
「……あの」
遠慮がちな少年の声が聞こえた。「いらっしゃいませ」と声を掛けると、静かに扉を開けて中に入ってくる。肩まで伸びた髪が印象的な少年の後ろにもう1人、少女が立っていることにその時気付いた。こちらは長い髪を一つ結びにしている。
「あの、求人募集の紙見たんですけど」
そういえばそんなのあったな。俺が働き始めた時からずっと扉の外側に貼りっぱなしなのに、気持ちが良いくらいに音沙汰が無いから忘れていた。
「今も、募集って続いてますか? 続いていたら、面接お願いしたいんですが」
2人の目が、俺の目を射抜くようにそこにある。切実に「生きている」目。でも大人を信じていない目。
ここに初めて来た時の俺も、こんな感じだったんだろうか。いや、もっと空虚な目をしていただろうな。
「えぇ、続いてますが……えっと、どちらが面接を?」
「2人ともお願いします」
「おー、良かったな日向。てんてこ舞いが楽になるぞ」
「イサナ、ちょっと黙って」
彼女を黙らせて、カウンターの方に2人を招く。
「……イサナって」
椅子に座りながら、少女が口を開いた。少女とイサナの目がぱちっと合う。
「……本名ですか? 勇魚。くじらの古名ですよね」
イサナが少し驚いたように見えた。
「……あぁ、そうだな。通り名みたいなものだ」
勇魚。くじらの古名。全然知らなかった。言葉への関心が強い子なんだろう。
少女は星來、少年の方は維月という名前だった。杠さんに面接の選考基準を訊くのを忘れた、と思う。でも2人とも真面目そうだし、………
「あれ」
2人が持って来た履歴書を見ながら、引っかかることがあった。
「2人とも随分住所が遠いけど……今どこに住んでるの?」
星來が少し怯えたように表情を強張らせる。あー、と維月が少し笑って頭を掻いた。
「自分たち、割と家庭環境が面倒なことになってて。諦めて、出て来ちゃいました」
家出少年と家出少女。
めんどくさそう。
「良いじゃないか」
振り返ると、イサナが俺の背後から手を伸ばして2人の履歴書を取り上げた。俺が座っている椅子の背に左手を掛けたまま、しげしげと眺め始める。何故お前が店側の人間のスペースに居るんだ。
「日向、実際に人手は足りていないんだろう? それに2人とも身元ははっきりしてるし、16と17だったか? 高校生の年齢だから働かせても問題ないし、最悪家に強制送還すれば良い」
最悪、というのはどういう場合なんだろう。
イサナのずけずけとした物言いに、今度は星來だけでなく維月も表情を凍りつかせた。怯えさせてどうする。
「……流石に、訳アリっぽいから問答無用で強制送還はしないと思うけど……じゃあ今2人とも家は? あと親御さんに連絡は?」
「帰ってない、というか無いです。家は……連絡取れないですね」
星來はスマホを家に置いて出て来たらしく、維月は家族の方から連絡を断たれているらしい。益々めんどくさそうだ。中途半端な情けで人を助けても碌なことにならないのも、知っている。でも「うちでは雇えないよ」と放り出す勇気が、俺には無かった。何故か「ここで働きなよ」と俺を受け入れてくれた時の杠さんの笑顔が、頭の奥にちらついている。
「……じゃあ、奥の物置部屋の空いているスペースで良ければそこ使って。給料はちゃんと払うから、自立できそうな環境になったら後は好きにして」
……確かに身元はちゃんと分かるし、人手は足りていないし、給料を払う余裕がない訳ではない。何より、ここで2人を放り出すのは夢見が悪い、という非論理的な考え方が、俺にこんなことを言わせた。
「ありがとうございます、よろしくお願いします。えっと……日向さん? で良いですか?」
維月が首を傾げながら問う。そうだよ、と言おうとして、一瞬口を噤んだ。
迷い子だった彼の、透夏の笑顔が脳裏を過る。空虚な目をしていた俺を受け入れてくれた、杠さんの笑顔がまた浮かぶ。
居場所が欲しかったのかもしれない。俺も、透夏も。
そして、今目の前にいる彼らも。
「本名は日向。でもまぁ、そうだな……透夏、とでも呼んで」
「トウカ? 透明に花、ですか?」
「ううん、透明に夏。前に仲良くしてくれた幽霊の友達の名前でね、僕の昔の活動名なんだ」
星來の問いにそう答えると、星來と維月が顔を見合わせて首を傾げる。血縁関係はないと言っていたけど、兄妹のような雰囲気のある2人だ。
「そうなんですね。じゃあ、よろしくお願いします。透夏さん」
「よろしくお願いします」
俺もそう言って、笑って見せた。
閉店後、カウンターチェアに座ってカフェラテをスプーンでかき回していた俺に、杠さんが声を掛けてきた。
「はい」
「日向くんはさ、君にこの店を譲るよって僕が言ったらどう思う?」
は?
「エープリルフールを疑うか、そうでなければ……絶っっ対に言う相手を間違えてるなって思います」
杠さんが愉快そうに笑った。
「いやぁ、実は割と冗談抜きで店を譲る人を探していてね。日向くん、どう?」
「だから、訊く相手を間違えてますって」
俺も笑顔を浮かべながら、でも本気で言う。俺がここで働き始めて、もうすぐ3年ほどになるだろうか。22の時に音楽で食べていくのを諦めて、そこから1年くらいはふらふらしていた。替えがきく仕事で働いて、気まぐれに歌って。そしてここに流れ着いて、店主の杠さんに拾ってもらって、今に至る。なんて根性のない経歴なんだろうか。
「日向くん、真面目に働いてくれるし、何よりもこの店が大好きなんだろうって思わせてくれるからね。前から考えてはいたんだ」
確かにこの店は大好きだ。杠さんにも並々ならぬ恩を感じてはいる。でも、だからこそ。俺が? この店を?
「……杠さんは、どうするんですか? 他人にこの店を譲ったとして」
『俺に』とは絶対に言わない。だってきっと俺は、力不足だ。
「そうだなぁ……色々あるよ。ずっと1人で店やってたから、海外とか行ってみたい。まぁ、普通に働いててももうすぐ定年だしね」
え? という声が口から洩れる。思えば、杠さんの年齢を俺は知らない。
「僕、今年で60だよ」
「えぇーっ」
見えない。50代半ばくらいだとずっと思っていた。素直にそう言うと、「若く見られたい人は喜ぶのかもしれないけど」と杠さんが頭を掻いた。確かに年功序列が残っているコミュニティでは損をすることがあるのかもしれない。
「で、僕の年齢の話はどうでも良くてさ。まぁ今すぐ判断するのは無理だろうけど、ちょっと考えておいてくれる?」
「あ」と思い出したように呟いて、心優しく型破りな俺の雇い主は笑って続けた。
「人に譲るってことになったら、所有権も経営方針も全部その人に投げるから。売る物変えるも潰すもその人次第」
それは、良いのか。譲るというより体良く押し付けているようにも見える。
「……それ、譲るって言い方して良いんですか」
「うーん。人に譲ってしまえば僕は店仕舞いとかしなくて済むし、押し付けてるに近いかも」
認めたなぁこの人。
「……ちょっと考えても良いですか?」
「今の発言の後でよく検討に入れたね」
杠さんがそう言って笑う。同感ですと心の中で呟いて、俺も笑った。
冬の朝のテンプレートみたいに、凩の音が微かに聞こえる。
「おはようございます」
俺が声を掛けると、型破りな店主が顔を上げた。
「おはよう。今日寒いね」
「そうですね。……あ、杠さん」
「ん?」
「俺がこの店を引き継ぐってなったら、何をどうしたら良いんですか?」
杠さんが驚いたように目を瞬かせる。そんなに驚くなら、提案しなければ良いのに。
「……まじ?」
「まじです。俺、タチの悪い冗談嫌いなので」
真面目な顔をして言うと、ははっと楽しげに彼が笑った。
「知ってるよ。そうかそうか、ありがとう」
「……はい」
この人の笑顔には、魔力があると思う。だってこんなにも無鉄砲な、1年後どうなるかも分からない提案に乗ったばかりなのに。こんなにも、無条件に安心している。
この人みたいになりたいな。
もう今まで何度思ったか分からないことを、また思った。
「で、杠さん俺は何を……」
焦りが出ていることを自覚しながら再び問うと、杠さんはまた笑って言った。
「身構えてるみたいだけど、今までほぼ会計も発注も日向くんがやってくれてたでしょう? だからほぼ名義が変わるだけと言っても過言ではない」
確かに「面倒だからやっといてー」と丸投げされて作業してはいたけど。
「じゃあ、来週辺りに判子持って来て」
笑って続けた杠さんに、思わず盛大に溜息を吐く。
なんて型破りなんだろう。
型破りで、優しくて、食えない人だ。
「……あぁそれから、前から気になってたんですけど……ここって何の店なんですか?」
話題を変えた俺に、杠さんが何を言うとでも言いたげに首を傾げる。
「えー? ライブハウス兼音楽スタジオとかじゃない?」
「カフェの要素は何処へ?」
「え、音楽だけじゃ経営回らなくて飲み物出し始めただけだし、僕はカフェを作ったつもりはないよ」
「今やそれと機材レンタルが主な収入じゃないですか」
「でもほら、常に初心を忘れないって大事なことだと思って」
意地なのか駄々を捏ねているだけなのか、よく分からない。
あれやこれやと屁理屈を並べ続ける心優しく型破りな雇い主に、ふっと笑ってしまった。
「日向くん、この店引き継いだんだって?」
常連のご婦人方の1人がコーヒーを啜りながら話しかけてきた。この店は基本的にいつも空いているけど、平日の午前中にはこうして常連さんたちがやってくる。ありがたいことだ。
「はい。杠さん、引き継いで3日経ったら『大丈夫そうだねー』って言って来なくなりましたよ。ああいうのって最低でも1週間くらい来るものじゃないんですか」
文句を垂れる俺に、常連さんは軽やかに笑った。
「日向くんが頼れるから、あの人も気軽に引き継げたんでしょ。本当、良い子を捕まえたわ杠さん。人当たりは良いし、イケメンだし」
「本当にね。ここに来るだけで元気になれるわ」
そんなことを言われるのはここで働き始めるまで一度もなかったから、きっと贔屓目で見てくれているんだろうと気持ちだけ受け取っておく。
「僕を褒めても何も出ませんよ」
「そんなことないわよ」
「そうそう、若い人が話し相手になってくれるだけで嬉しいもの」
「そういうものですか」
「そういうものよ」
彼女たちがそう言って笑う。「兄ちゃん」とカウンターの端の方から声を掛けられて、「はーい」と答える。兄ちゃんって歳でもないんだけど。
「ブレンドコーヒー一つちょうだい」
「かしこまりました」
杠さんが居ないこの店は予想以上に忙しいけど、予想以上に充実していた。顔見知りの人たちの井戸端会議を聞くのが苦痛じゃないのも、この商売では良かったのかもしれない。
昼を過ぎると、このスタジオは一気に閑散としてくる。機材を借りに来る人がぱらぱらと居るのと、週に2、3回数時間スタジオの場を借りに来る人が居るのを除いては、静かなものだ。
掃除を終えて暇を持て余していると、時計の秒針の音だけが妙に響いて聞こえる。こういう時、杠さんは思い切り良くオセロやトランプを広げて俺を遊びに誘ってくれた。その時は半分呆れていたけど、いざあの遊びがなくなると、少しだけ寂しい。
暇が高じて本を開く。ページをぱらぱらと捲っていると、バンと音を立てて唐突に扉が開いた。
「げ」
こんなにも乱暴に扉を開ける人間は1人しかいない。俺の不満気な声をよそに、彼女は勢い良く歩いて来て俺の目の前に座った。
「『げ』とは何だ日向。せっかくこの私が来てやったのに」
「……イサナ。扉の開け閉めはもっと丁寧にしろと何回言えば良いんだ」
「人が居る時にはもう少し丁寧に開け閉めするさ。この程度で壊れるショボい扉じゃないんだから良いだろう」
「俺が居るじゃないか」
「私がさっき言った人とは客のことだ。カフェオレ一つ」
「……はいはい」
立ち上がりながら思う。傍若無人を絵に描いたら、きっと彼女が出来上がるんだろう。
イサナ。本名不明。年齢不詳。俺が杠さんの下で働き始めて2年ほどの頃からしょっちゅう現れるようになった常連だ。常連と言っても、ふらっと数ヶ月姿を消すことも珍しくない風来坊。
嵐のような人、という形容がここまで似合う人間を、俺は他に知らない。杠さんは「彼女、詩の才能はすごいんだよ」と笑っていた。確かに彼女の詩はすごい。でもその傍若無人さが嫌いだと訴えたら、客の好き嫌いを口に出すんじゃないと真っ当に叱られた後、杠さんに言われた。
「でも彼女と喋ってる時の日向くん、良い感じに素が出てて僕は好きだよ。一人称も『俺』だし」
確かに客の前では「僕」と言うようにしている俺だけど、イサナの前ではどうも上手くいかず、早々に諦めてしまった。
「日向、そういえば店主殿から店を引き継いだらしいな。良かったじゃないか、好きにできる」
「当分は現状維持の予定だけどね」
そう返すと、イサナはつまらなさそうに溜息を吐いた。何だその反応。
「改革なんて今やってみろ、俺が過労で倒れるのも時間の問題だぞ」
「どうせ昼間は暇な癖に。あのな、大体引き継ぎと革命は紙一重というもので」
「何だそれ。朝はてんてこ舞いで大変なんだよ。あ、イサナここで働くか?」
「場所としては悪くないが、日向の部下というのが解せないから断る」
「ひど。ま、お前みたいな破天荒に来られても困るけど」
「そういえば、何の本読んでたんだ?」
イサナが唐突に話題を遮った。話を聞け。
「税金と法律について。最低限は頭に入れておけって杠さんがくれた」
「真面目か」
「放っとけ」
からん。
扉に付けてあるベルが音を立てて、俺とイサナは揃って扉の方を見た。
「……あの」
遠慮がちな少年の声が聞こえた。「いらっしゃいませ」と声を掛けると、静かに扉を開けて中に入ってくる。肩まで伸びた髪が印象的な少年の後ろにもう1人、少女が立っていることにその時気付いた。こちらは長い髪を一つ結びにしている。
「あの、求人募集の紙見たんですけど」
そういえばそんなのあったな。俺が働き始めた時からずっと扉の外側に貼りっぱなしなのに、気持ちが良いくらいに音沙汰が無いから忘れていた。
「今も、募集って続いてますか? 続いていたら、面接お願いしたいんですが」
2人の目が、俺の目を射抜くようにそこにある。切実に「生きている」目。でも大人を信じていない目。
ここに初めて来た時の俺も、こんな感じだったんだろうか。いや、もっと空虚な目をしていただろうな。
「えぇ、続いてますが……えっと、どちらが面接を?」
「2人ともお願いします」
「おー、良かったな日向。てんてこ舞いが楽になるぞ」
「イサナ、ちょっと黙って」
彼女を黙らせて、カウンターの方に2人を招く。
「……イサナって」
椅子に座りながら、少女が口を開いた。少女とイサナの目がぱちっと合う。
「……本名ですか? 勇魚。くじらの古名ですよね」
イサナが少し驚いたように見えた。
「……あぁ、そうだな。通り名みたいなものだ」
勇魚。くじらの古名。全然知らなかった。言葉への関心が強い子なんだろう。
少女は星來、少年の方は維月という名前だった。杠さんに面接の選考基準を訊くのを忘れた、と思う。でも2人とも真面目そうだし、………
「あれ」
2人が持って来た履歴書を見ながら、引っかかることがあった。
「2人とも随分住所が遠いけど……今どこに住んでるの?」
星來が少し怯えたように表情を強張らせる。あー、と維月が少し笑って頭を掻いた。
「自分たち、割と家庭環境が面倒なことになってて。諦めて、出て来ちゃいました」
家出少年と家出少女。
めんどくさそう。
「良いじゃないか」
振り返ると、イサナが俺の背後から手を伸ばして2人の履歴書を取り上げた。俺が座っている椅子の背に左手を掛けたまま、しげしげと眺め始める。何故お前が店側の人間のスペースに居るんだ。
「日向、実際に人手は足りていないんだろう? それに2人とも身元ははっきりしてるし、16と17だったか? 高校生の年齢だから働かせても問題ないし、最悪家に強制送還すれば良い」
最悪、というのはどういう場合なんだろう。
イサナのずけずけとした物言いに、今度は星來だけでなく維月も表情を凍りつかせた。怯えさせてどうする。
「……流石に、訳アリっぽいから問答無用で強制送還はしないと思うけど……じゃあ今2人とも家は? あと親御さんに連絡は?」
「帰ってない、というか無いです。家は……連絡取れないですね」
星來はスマホを家に置いて出て来たらしく、維月は家族の方から連絡を断たれているらしい。益々めんどくさそうだ。中途半端な情けで人を助けても碌なことにならないのも、知っている。でも「うちでは雇えないよ」と放り出す勇気が、俺には無かった。何故か「ここで働きなよ」と俺を受け入れてくれた時の杠さんの笑顔が、頭の奥にちらついている。
「……じゃあ、奥の物置部屋の空いているスペースで良ければそこ使って。給料はちゃんと払うから、自立できそうな環境になったら後は好きにして」
……確かに身元はちゃんと分かるし、人手は足りていないし、給料を払う余裕がない訳ではない。何より、ここで2人を放り出すのは夢見が悪い、という非論理的な考え方が、俺にこんなことを言わせた。
「ありがとうございます、よろしくお願いします。えっと……日向さん? で良いですか?」
維月が首を傾げながら問う。そうだよ、と言おうとして、一瞬口を噤んだ。
迷い子だった彼の、透夏の笑顔が脳裏を過る。空虚な目をしていた俺を受け入れてくれた、杠さんの笑顔がまた浮かぶ。
居場所が欲しかったのかもしれない。俺も、透夏も。
そして、今目の前にいる彼らも。
「本名は日向。でもまぁ、そうだな……透夏、とでも呼んで」
「トウカ? 透明に花、ですか?」
「ううん、透明に夏。前に仲良くしてくれた幽霊の友達の名前でね、僕の昔の活動名なんだ」
星來の問いにそう答えると、星來と維月が顔を見合わせて首を傾げる。血縁関係はないと言っていたけど、兄妹のような雰囲気のある2人だ。
「そうなんですね。じゃあ、よろしくお願いします。透夏さん」
「よろしくお願いします」
俺もそう言って、笑って見せた。



