ツアーの準備は、傍目には全てが順調に進んでいるように見えた。
日向は勿論、常にスマートフォンとノートPCを手放さず、各方面への連絡や調整で走り回って忙しそうな様子は見せていた。けれど、私たちが声をかければ、彼はいつだって何でもないように笑ってのけた。
過労で倒れそうな疲れた様子なんて、プレッシャーに押し潰されそうな弱気なところなんて、メンバーの前では、そして私の前でも、一切見せようとはしなかった。
『完璧なプロデューサー』としての仮面。
それが彼のプライドであり、私たちを守るための盾なのだと分かっていたから、私もあえてそれ以上踏み込むことはしなかった。
ただ、一度だけ。
深夜のスタジオ。サトルとマサキが買い出しに出ていて、防音室の中に私と日向だけが残された、短い休憩時間のことだった。
日向はパイプ椅子に深く腰掛け、眉間を揉みながら、膝の上のPC画面を睨みつけていた。その張り詰めた背中が、ほんの少しだけ小さく、強張って見えた。
私は無言のまま、立てかけてあったアコースティックギターを手に取った。
そして、ぽろろん、と。自分たちのバンドの曲調とは全く違う、軽やかで優しいコードを鳴らす。
大好きな、YUIの『I remember you』。
ピックは使わず、指の腹で優しく弦を弾きながら、ハミング混じりの小さな歌声をスタジオの空気に溶かしていく。
誰に聴かせるわけでもない、ただの気まぐれな息抜きのような、どこか過ぎ去った夏への憐情を誘う切ないメロディ。
ふと、タイピングの乾いた音が止まった。
ギターを弾きながら視線を上げると、PCから手を離した日向が、静かにこちらを見つめていた。
いつも眉間に寄せている険しい皺も、すべてを計算しようとする理屈っぽい光も、そこにはない。
彼はただ、私のハミングとアコースティックギターの拙い音色に身を委ねるように、ふっと肩の力を抜いて。
憑き物が落ちたように、心底安心したような、ひどく穏やかで無防備な笑顔を見せてくれたのだ。
「……日向?」
私がハミングを止めて小声で呼ぶと、彼はゆっくりと瞬きをして、いつものような憎まれ口ではなく、掠れた声でぽつりと言った。
「……そのまま。もう少しだけ、弾いててくれ」
彼がどれほどの重圧を一人で抱え込んでいるのか、私には本当の意味では分かってあげられない。
けれど、私の歌声がほんの少しでも、あの孤独な玉座の傍に寄り添い、彼を癒すことができるのだとしたら。
私はもう一度小さく頷き、目を閉じた彼のためだけに、柔らかいコードを弾き直した。

