音に溺れる




眩暈に耐えながら、明日のスケジュールを確認しようとロックを解除したスマートフォンの画面。

そこへ、ふっとポップアップの通知が滑り込んできた。

『練習終わった? 私も週末大会だから、今日は10km走り込み!』

……水瀬からだ。

無機質なブルーライトの中で、彼女の送ってきたその短いテキストだけが、ひどく鮮やかな熱と生命力を持っていた。

俺がタスクとプレッシャーに押し潰されて泥のように疲弊しているこの瞬間にも、彼女は彼女自身の戦いに向けて、自分の限界まで身体を追い込んでいる。

その眩しすぎるほどのエネルギーに、少しだけ目を細めた。

フリックする親指が、鉛のように重い。

『あぁ。お互いお疲れ』

極力そっけなく、短い文字だけを打ち返して画面を閉じようとした、その数秒後。

既読がつくよりも早く、追撃のメッセージが画面を揺らした。

『家来る?』

「……っ」

息が、微かに詰まった。

深夜の、この時間。一人暮らしをしている彼女からの、あまりにも直球で、無防備で、そして残酷な誘い。

(……普通の男なら、喜んで行くんだろう)

吊り革を握る手に、ぎゅっと力が入る。

好きな女から、夜中に『家に来るか』と誘われているのだ。どんなに疲れていようが、明日が早かろうが、飛んでいくのが『彼氏』としての、あるいは『男』としての正解のはずだ。

彼女の甘い匂いのする部屋で、その体温に触れて、馬鹿みたいに甘えられたら。この狂いそうなほどの孤独やプレッシャーから、一瞬だけでも完全に解放されることは分かっている。

けれど。今の俺には、その誘いに乗るだけの物理的な体力も、彼女を楽しませるための精神的なキャパシティも、1ミリも残されていなかった。

今彼女の部屋に行っても、ただ泥のように眠りこけて呆れられるか、最悪の場合、余裕のなさから彼女を傷つけてしまうかもしれない。

震える指先で、文字を打つ。

『残念。もう電車乗った』

送信ボタンを押した瞬間。
真っ暗な車窓のガラスに映る、ひどく情けなくて、血色の悪い自分の顔と目が合った。

好きな女の誘い一つ、まともに受けてやれない。
自分のキャパシティの限界を理由にして、彼女が差し出してくれた『逃げ道』すらも突っぱねてしまう。

(ーー男として、欠陥品だ)

ガタン、と電車が大きく揺れる音に混じって。
誰になしに、そう冷たく宣告されているような気がした。

完璧なバンドのリーダーでありたいと願うほどに、俺は一人の男として、致命的にバグだらけのポンコツに成り下がっていく。