「日向、良かったらこの後ファミレスーー」
「……悪い、帰って明日の小テストの勉強」
サトルの能天気な誘いの声に、俺はロクに目を合わせて返事をすることもなく、逃げるようにスタジオの防音扉を押し開けた。
後ろめたい気持ちがないわけじゃない。
けれど、今の俺には「断るための気の利いた言い訳」を構築するだけの脳の処理能力すら残っていなかった。
下北沢のスタジオから駅までの、人混みを縫って歩く10分間。
背中にのしかかる機材の重さと、限界を迎えている身体を引きずるようにして、深夜の駅の階段を駆け下りる。
発車メロディが鳴り響く中、滑り込むように終電間際の電車に乗り込むと、ドアが背後で無情に閉まった。
ガタン、と電車が揺れ出す。
蛍光灯の白い光が目に刺さる車内で、吊り革に寄りかかりながら。
「……ふぅ」
自分でも驚くほど長く、重いため息が自然に漏れた。
(……大丈夫。まだやれる)
誰に聞かせるわけでもない呪文を、脳内で反芻する。
まだ、キャパシティは完全にオーバーフローしていない。まだ、何も終わっていない。俺の計算式は、ギリギリの均衡を保って回り続けている。
スマートフォンを取り出し、無機質なブルーライトに照らされながら、明日以降のタスク一覧を開く。
(……明日は一限から『生理学』の小テスト。明後日は『組織学』だったか?)
分厚い教科書のページが脳裏をよぎり、胃の奥がじわりと重くなる。
膨大な暗記量。あぁもう……徹夜したい。徹夜してすべてを頭に叩き込みたい。……でも、少しでいいから泥のように眠りたい。
(……いや、寝る前に、確かTシャツのデザイナーからメールが来てたはずだ。
朝までにレスを打ち返さないと、発注の納期に間に合わない。
あと、明日の昼のタイミングで、チケットの二次先行の締切のリマインドをSNSで発信して……
それから、仙台のハコとの機材の確認連絡……)
スマートフォンの画面を見つめているはずなのに、文字が滑って全く頭に入ってこない。
ーー優先順位をつけろ。
医学生としても、一番最初にやるべき基本中の基本だ。
けれど、今の俺にはそれができなかった。
(優先順位? ……どれも『今』やらなきゃいけないことだ……)
一つでもピースが欠ければ、俺の描いた完璧なロードマップは一瞬にして崩れ去る。
すべてが最重要タスクであり、絶対に落とせないボールだ。
窓ガラスに映る、ひどく血色の悪い自分の顔と目が合う。
自分が背負い込んでしまったものの異常なまでの重さと、それを一人で処理し続けなければならないという孤独に、今更ながら強烈な眩暈がした。

