後期の授業が、始まった。
ある程度は覚悟していたし、心の準備はしていたのだけれど。
本当に、あんなに必死に準備してきたはずのバンドの練習すら「サボりたい」と心から思うほどに、医学部のカリキュラムは容赦のない殺人的な試験の数々だった。
放課後の空き教室。
分厚い薬理学の教科書とレジュメの山を前にして、俺はついに限界を迎えて机に突っ伏した。
「無理……寝たい」
自尊心も、バンドの年長者としての威厳も何もかもをかなぐり捨てた、ひどく情けない声が漏れる。
すると、向かいの席で自分のノートを広げていた水瀬が、呆れたように、けれどどこか楽しげな声で俺を見下ろした。
「はいはい。これは? ジゴキシンの作用機序」
「……」
甘やかす気など微塵もない、容赦のない問題の読み上げ。
俺は机に顔を押し付け、重い瞼を閉じたまま、半分機能停止しかかっている脳のシナプスを無理やり繋ぎ合わせて、呪文のように解答を紡ぎ出した。
「……細胞膜のNa+/K+ ATPaseの阻害。それに伴って細胞内のナトリウムイオン濃度が上がって、Na+/Ca2+交換系が抑制される……結果、細胞内のカルシウム濃度が上昇して、心筋収縮力が増強する……」
「正解。よくできました。じゃあ次、血中濃度が中毒域に達した時の初期症状は?」
「……悪心、嘔吐、食欲不振。……あと視覚異常……」
「うん、完璧」
水瀬の手が伸びてきて、机に突っ伏している俺の頭を、よくできた子供を褒めるようにポンポンと軽く撫でた。
そのひんやりとした指先の感触と、微かに香る甘い匂いに、ささくれ立っていた神経が少しだけ解けていくのを感じる。
「……もう勘弁してくれ。頭割れる」
俺が呻くように言うと、彼女はふふっ、と肩を揺らして笑った。
「全国ツアーのハコ取りや予算管理は一人で完璧にこなす頼れるリーダーも、薬理学の暗記の前じゃただのポンコツね」
「……人間の脳のキャパシティには限界があるんだよ。お前みたいに、息をするように点数が取れる天才と一緒にするな」
「私は天才じゃないわ。日向が、余計なタスクを抱え込みすぎてるだけでしょう」
痛いところを突かれ、俺は反論する気力すらなく黙り込んだ。
彼女の言う通りだ。
ただでさえギリギリの医学部の勉強に、全国ツアーの裏方作業が重なっている今の状況は、完全に俺の処理能力を超えている。
それでも。
こうして一番余裕がなくて無様な姿を曝け出せる相手が、他の誰でもない彼女であるという事実が、俺の首の皮一枚を繋ぎ止めていた。
「……あと10分だけ。このまま寝かせてくれ」
「仕方ないなぁ。10分経ったら、次は抗菌薬の範囲いくからね」
「……鬼」
毒づきながらも、俺は彼女の指先がもう一度だけ俺の髪に触れるのを期待するように、静かに意識を暗い底へと沈めていった。

