音に溺れる



アンプの電源が落とされ、喧騒が戻ってきた駅の広場。

私はマイクのケーブルを巻きながら、先ほどの興奮がまだ冷めやらない胸を押さえて、隣でタブレットをいじる彼に声をかけた。

「ありがとう、日向」

「……ん」

「……ツアーなんて、本当にできると思ってなかった。……すごく、楽しみ」

心の底からの本音だった。

彼が裏でどれだけのものを背負い、緻密な計算式を組み上げて、私たちの『音楽』を外の世界へ繋げてくれたのか。
その重みと喜びに、自然と声が優しくなる。

日向はタブレットから視線を外し、ふと、夜の街灯に目をやった。

そして、いつもの彼なら絶対に口にしないような、年相応の素直な言葉をこぼした。

「……俺も、すげー楽しみ」

信じられないものを見るような目で彼を見つめる私に、日向は少しだけ口角を上げ、淡々と先のビジョンを語り始めた。

「ーーツアー、終わったらさ」

「うん」 

「下北沢SHELTERで、一回ワンマンやりたいんだ。あそこを完売にしたら、ようやくバンドとしてちゃんとした『実績』が出来る」

下北沢SHELTER。インディーズバンドにとっての登竜門であり、憧れの聖地。

「そこから、ちょっとずつワンマンで埋められるハコのキャパを増やしていってーー」

日向はそこで言葉を区切り、私の方へ真っ直ぐに視線を向けた。

「どう? 渋谷クアトロ満員ってのも、不可能な目標に見えなくなってきただろ?」

日向はそう言って、笑った。
普段の冷笑でも、取り繕った大人の笑みでもない。純粋に、自分の描いた完璧な青写真を誇るような、ひどく綺麗な笑顔だった。

……まるで。

まるで、その『渋谷クアトロ満員』が、彼にとってのラストで。

それから先のゴールなんて一切考えていない、最高の幕引きなのだと言うように。

いや……実際、きっとそうなのだろう。

彼はもう、私なんかよりずっと先の景色を見て、計算式を組み立てようとしている。

暗くなった画面を見つめながら、彼はぽつりと、自分自身に言い聞かせるように呟く。

「……あと一年と半年。多分、それが、リミットだと思うから」

夜の街の喧騒が、彼のその静かな宣告を吸い込んでいく。

……何の? とは、聞けなかった。
……聞かなくても、想像できた。

彼が背負っている『医学生』という絶対的な役割。

彼にとってこのバンドは、どれだけ熱を注いでも、どれだけ愛しても、最初から「終わらせるための計算式」が組まれた、期間限定の夢だった。

……痛いほどに分かって、いるつもりだけれど。
実感すればするほどに、『まだ彼と一緒に音楽をやっていたい』という我儘がつい口から溢れそうになる。

私の戸惑いなど気にも留めないふりをして、日向は機材バッグを肩に担ぎ上げた。


「ほら、帰るぞ。明日も朝早いから」


いつものように背中を向けて歩き出す彼を引き止める権利なんて、ただの『ボーカル』である私には、どこにもなかった。