大きく息を吸い込む。潮風の混じった冷たい夜の空気が、肺を満たした。
(もう、迷わない)
始まりを告げたのは、私のギターのカッティングでも、日向の正確なピアノのコードでもなくーー
私の、声だった。
伴奏の一切ない、純粋なアカペラのワンフレーズ。
マイクを通したその声が、オレンジ色の街灯の下、駅前の喧騒を真っ二つに切り裂いて響き渡る。
途端、行き交う人々の視線が一気に私に集まるのが分かった。
それは足を止めたくなるような純粋な興味か、あるいは日常を遮る雑音に対する苛立ちや牽制かはわからない。けれど、そんなことは、もうどうだってよかった。
私が歌えば、彼らは必ず振り返る。あの最高に理屈っぽくて完璧なリーダーが、そう断言してくれたのだから。
静寂を引き裂いた私の声に、一呼吸置いて。
やがて、私の弾くメロウなアコースティックギターのサウンドがふわりと加わり、ただの無機質な駅前の夜の風景が、一瞬にして『どこか特別な空間』へと色を変える。
後ろではマサキのカホンが、心音のように心地よいリズムを刻み始めた。
『夜に溶けるような声で』
目を閉じて息を継いだ瞬間。
いつかの日、日向がこの曲の楽譜の隅に、殴り書きで指定した記憶がふっと蘇る。
普段は「BPMをキープしろ」だの「ここのピッチが甘い」だのと、数字と理屈でしか音楽を語らないあのコントロールフリークが。
私の声に対してだけは、時折あんな風に、ひどく感覚的でポエティックな言葉を使って表現を求めてくる。
彼が私の声の中に何を見出し、この路上でどんな景色を描こうとしたのか。
その手渡された『計算式』のあまりの美しさに応えるように。私は肩の力を抜き、言葉の輪郭を夜風に馴染ませるように、そっと歌い紡いでいく。
目を開けると。
つい先程まであんなに急ぎ足だった仕事帰りの人たちが、スマートフォンを見ていた観光客たちが。
一人、また一人と足を止め、魔法にかけられたように私たちの音楽にじっと耳を傾けていた。

