音に溺れる




だけど、と私はノートの余白に目を落とし、先ほどの彼のプレイを思い出しながら反論するように口を開いた。

「……でも、日向だって100%『基本』通りには作ってないでしょう? わざと定石から外したりする」

私がそう指摘すると、日向は少しだけ驚いたように目を丸くし、それから感心したように細めた。

「そうだ。基本通りってのは裏を返せば”予測可能”ということだからな。結末が読める小説や映画が面白くないのと同じで、ただのセオリー通りじゃいずれ退屈になる」

さらりと言ってのける彼に、私はずっと気になっていたことを尋ねてみた。

「……日向みたいに『作れる』人から見て、作曲の上手い下手ってどういうことなの?」

私の問いに、彼は少しだけ顎を引き、思考を巡らせるように鍵盤の上を指で滑らせた。音は鳴らない。ただ、彼の中だけで組み上げられている数式を確かめるような、静かな仕草だった。

「……定石を外すにも、意図と計算が裏にあるかどうか、かな」

淡々とした、けれど絶対的な自信に満ちた声がスタジオに落ちる。

「ただ感覚や気分で音を外すのは、単なるノイズだ。そうじゃなくて、なぜここで不協和音を入れるのか、なぜこのタイミングでリズムを崩すのか。……なぜそれが人の心に響くのかを、ちゃんと言語に落とし込める」

その言葉に、私は息を呑んだ。

(完璧な計算の上で、あえて予測を裏切る)

彼が作る、胸を締め付けられるほど切なくて激しいメロディ。そのすべてが「偶然の産物」などではなく、彼の冷徹なまでの「計算」と「支配」のもとに成り立っているのだと思い知らされる。

感情という一番あやふやなものすら、音符という言語を使って完璧にコントロールしようとする。

その底知れなさと、圧倒的な知性に、私はまた少しだけ、逃れられない引力を感じてしまっていた。