音に溺れる



……多分、シキは気になっているんだろう。

どうして俺があんな朝早くから、一人でピアノなんて弾いていたのか。

彼女の性格なら、ずかずかと無神経に踏み込んでくることはない。だけど、その視線の端々に戸惑いや疑問が揺らめいているのは、痛いほど伝わってきた。

……それでいい、と思う。

何も触れられたくない。

あんな、一人で安い感傷に浸っていた無様なところなんて、正直誰にも、ましてやこいつには絶対に見られたくなかった。感情のノイズに呑まれかけていたあの瞬間は、俺にとって最大の「隙」であり「敗北」だ。

どれだけ虚勢を張っていると思われてもいい。

……この子の前では、ただ『頼れるリーダー』だとか、『歳上の大人の男』だとか、そういう完璧にコントロールされた役回りのままでいたい。過去の傷も、醜い執着も、不安も一切持たない、ただの有能な人間として。

きっと、彼女も俺のそのメッキが剥がれることなんて望んでいないはずだ。

俺が理性の壁を崩して、ドロドロとした本音を晒け出せば、この心地よい『音楽の同志』という安全な関係すら壊れてしまう。それなら、俺は永遠にこの冷たいメッキを被ったままでいい。

そう自分に言い聞かせるように、俺は波の音に紛れさせて、小さく、誰にも聞こえないため息を吐き出した。