音に溺れる



何かを、聞きたかった。

どうして、そんなに悲しそうに弾いていたのか。
今弾いていたのは、なんの曲だったのか。
そして、その奥底で彼を縛り付けているものは、一体なんなのか。

喉の奥まで出かかった言葉を、私は必死に飲み込んだ。

結局、その全てが自分の口から出ることは、なかった。

ピアノの横で目を伏せる彼が纏う空気が、これ以上何かを踏み込んで聞くことを、強烈に拒絶している気がしたからだ。

ここで「どうしたの」と優しく触れようとすれば、彼はきっと二度と私に、あの音を聞かせてくれなくなる。

そんな直感めいた恐怖が、私の足を床に縫い付けていた。

息の詰まるような沈黙がスタジオに落ちる。

やがて、日向はゆっくりと立ち上がると、黒い鍵盤の蓋を静かに、けれど明確な拒絶の意志を持って閉めた。

パタン、と硬い音が響く。

「……目が覚めたんなら」

鍵盤から手を離し、彼が不意に口を開いた。

「一緒に、海でも見に行かないか」

予想外の言葉に、私は驚いて顔を上げた。

日向はこちらを見ないまま、ポケットに両手を突っ込み、どこか自嘲するように、疲れた声でぽつりと付け足した。

「……どうにも最近つい、一人だと余計なことを考える」

それは、いつも完璧で論理的な彼からは想像もつかないような、ひどく脆くて、等身大の男の子の弱音だった。

「……うん」

私は小さく頷いた。
彼が一人で考えてしまう「余計なこと」が何なのか、私には分からない。さっきのクラシックの曲のことなのか、それとも、私の知らない別の誰かのことなのか。

それでも、彼が今この瞬間、一人でいることに耐えきれず、隣にいる人間として私を選んでくれたこと。

その事実だけで、胸の奥がぎゅっと締め付けられるように痛くて、同時にどうしようもなく嬉しかった。