けれど、圧倒的な熱量で紡がれていた旋律が進むにつれ、その音は何度も、息を呑むように苦しげに震え始めた。
ミスタッチをしたわけじゃない。技術的に足りないとか、そういうことでは絶対にない。
……まるで、彼自身が、その音の奥底にある悲しみに耐えきれないとでもいうように。
やがて、ふっと。
糸が切れたかのように、あるいは電池が切れたかのように、突然その演奏は止まってしまった。
重厚な和音の残響だけが、スタジオの空気に溶けてゆっくりと消えていく。
「……くそ」
鍵盤に指を置いたままうなだれた彼から、ポツリと漏れ出た声。
それは、ひどく静まり返った密室の空間に、痛いほどよく響いた。
そこで日向は、自分に纏わりつく悲しみの残滓を強引に振り切るように、ふっと顔を上げた。
そして、僅かに開いたドアの隙間に立っていた私とーー目が合った。
「……シキ」
彼の目が見開かれ、張り詰めた空気が一瞬にして凍りつく。
私は心臓を跳ねさせながら、慌ててドアを引き開け、一歩だけ中に入った。
「……ごめんなさい。目が、覚めちゃって」
言い訳のように掠れた声が出る。
彼が誰にも見せたくなかったであろう、ひどく脆くて無防備な顔を見てしまったことへの罪悪感。
でも、それ以上に、さっきまでこの空間を支配していた彼の音楽の余韻が、私の心を激しく揺さぶっていた。
「……上手いんだね」
飾ることもできず、ただ素直な感想が口を突いて出た。
私の知っている『バンドのキーボーディスト』の枠を遥かに超えた、あの圧倒的な才能に対する、純粋な畏怖と称賛。
しかし、日向は私のその言葉を受け取ろうとはしなかった。
彼はすぐにいつもの冷徹な仮面を引っ張り出し、自嘲気味に鼻で笑うと、乱暴に鍵盤から手を離した。
「いや。……無様なもん聞かせた」
そして、ピアノのボディを軽く叩き、どこか苛立ったような、ひどく冷たい声で吐き捨てた。
「……調律が悪い。多分、潮風で傷んでるんだ。全然、ダメだよ」
それは、明らかに嘘だった。
彼の技術やピアノの調律の問題じゃない。彼自身の心が、途中で弾くことを拒絶しただけだということくらい、素人の私にだって痛いほど分かった。
でも、彼はそれを「物理的な楽器のせい」にして、見事に論理のヴェールで隠してしまった。自分の内側にあるドロドロとした感情を、私に、そして彼自身にも絶対に認めさせないために。
私は何も言えず、ただ、冷たいピアノの横で立ち尽くす彼の孤独な横顔を見つめることしかできなかった。

