音に溺れる




朝四時に、ふっと目が覚めた。

もう一度寝つこうと布団の中で寝返りを打ってみたけれど、夏の朝は早く、窓の外は思いの外すでにある程度明るかった。どうやら私を再び眠りの世界に誘ってはくれなさそうだ。

(せっかくだし、朝焼けの海でも見に行こうかな)

そう思ってそっとベッドを抜け出し、コテージの外に出た時だった。

ひんやりとした朝の空気の中、別棟にある防音スタジオの重い扉の向こうから、僅かに漏れ聞こえる音があった。

(……日向……?)

間違いない。ピアノの、音だった。

誰かに見つかるのを恐れるように、そっとドアノブに手をかけ、僅かに隙間を開ける。

薄暗いスタジオの中で、私の目は息を呑むような光景を捉えた。

いつもの、彼が弾いている電子キーボードじゃない。

部屋の奥に鎮座する備品のグランドピアノ。その前に座り、鍵盤に向かう彼の横顔は、私が知っている「大学生のバンドマン」ではなく、孤高で立派なソリストのそれだった。

……ひどく、綺麗な曲だった。

クラシックに詳しくはない私でも、それが緻密で、とてつもなく深い感情を要する曲だということはわかる。重く沈み込むような、それでいてひどく美しい旋律が、グランドピアノの豊かな反響を伴ってスタジオの空気を震わせていた。

……彼がクラシック出身だということは、聞いていた。

それでも、実際に彼がクラシックを、グランドピアノを弾いているところなんて、初めて見た気がする。

普段のバンド練習で彼が出す音は、全体を俯瞰し、ボーカルである私やリズム隊を立たせるための、計算され尽くしたバッキングだ。周りに気を遣ったような、あくまで主役は自分じゃない、と言いたげな、理性的で統制された音。

けれど、今の彼の音は全く違った。

全身で、全力で……彼自身の内側にある、誰にも触れさせない深く暗い世界を、そのまま鍵盤に叩きつけているような音だった。圧倒的な孤独と、暴力的なまでの美しさ。

ドアの隙間からその姿を見つめながら、私は鳥肌が立つのを止められなかった。
バンドのキーボーディストとしての「日向」ではなく、全てを一人で完結させる絶対的なピアニストとしての彼。
これが、彼の本当の姿であり、本領なんだと。私は理屈ではなく、ただ震える肌で理解していた。