音に溺れる





『御崎君ーーー』

『お母さん、が』

久々に、母親が突然いなくなった日の夢を、見た。
……ひどく冷え込んだ冬の日だった。

指先がかじかむほどの寒さの中、俺は暖房の効きが悪い部屋で、ひたすら鍵盤に向かっていた。コンクールに向けて、ショパンのピアノソナタ第2番、第三楽章――通称『葬送』を練習していたことを、今でも酷薄なほど鮮明に思い出す。


……あんな風に、母親の葬式で弾くために、重苦しい和音を練習していたわけじゃない。

ただ、コンクールで少しでもいい成績を残して、実績を作って、彼女を安心させたかった。

「自分の力で生きていける」と証明したかったがために、必死に指を動かしていたはずなのに。

あの日から、あの旋律は俺の中で、どうしようもない無力感と後悔の象徴になってしまった。

けれど、何が間違っていたのか、未だに分からない。

家に金もないのに、音楽の道を自分が夢見てしまったことか。

母親の不調に、限界を超えた極限までの疲労に、自分も父親も、少しも気づけなかったことか。

それとも、立派な言葉で信徒を救うふりをしながら、自分の家族すら食わせられず、微塵も稼げない『牧師』という職業を選んだ父親に、全ての責任をなすりつければ良かったんだろうか。

正解の出ない問いが、泥のように頭の中を巡る。


微かな波の音で、ふと意識が浮上する。

重い瞼を開けると、見慣れない木目の天井があった。サトルとマサキの規則正しい寝息が、少し離れた畳の上から聞こえてくる。

手元のスマートフォンで時計を見ると、まだ朝の四時だった。

それでも、窓の外の空は夏らしく、僅かに夜明けを感じさせる白み帯びた群青色をしていた。
俺は布団の中で、そっと自分の両手を顔の前にかざした。

何も握っていない空っぽの掌。

ゆっくりと、確かめるように指を動かす。

左手で重いオクターブの和音を沈め、右手で静かな、けれど絶望的なメロディを紡ぐように。

あの日奏でていた、ショパンの旋律をなぞるように。
音のない虚空の鍵盤を叩きながら、俺は静かに目を閉じた。

どれだけ完璧に弾きこなしても、たった一人の大切な人すら救えなかった、あの冷たい冬の記憶を、蒸し暑い夏の朝の空気に溶かすように、ただ何度も、何度も。