音に溺れる





限界まで音を鳴らし続けた初日の夜。

私たちはスタジオを出て、海風で少しだけ火照った身体を冷ましつつ、近くの寂れた定食屋に転がり込んでいた。

唐揚げや生姜焼きの匂いが充満する店内で、冷たい麦茶のグラスを傾けながら、ようやく全員の顔に安堵の疲労が浮かぶ。

「新曲、今日一日でだいぶ仕上がったね」

私がホッと息をつきながらそう言うと、向かいの席で大盛りご飯をかき込んでいたサトルが、満面の笑みでぶんぶんと頷いた。

「ほんと! やっぱり上手くハマるとすげー楽しいよな。日向の要求エグいけど、その分抜けた時の気持ちよさがヤバい」

「まあ、確かにな。あそこのキックの裏拍、最初は地獄かと思ったけど」

マサキも苦笑いしながら同意する。

そんな私たちのやり取りを、日向は自分の定食にはあまり手を出さず、静かに眺めていた。

「……色々言ったけど。楽しんでくれてるなら、良かった」

彼がふと、ぽつりとこぼした。
その声のトーンがいつもの厳しいプロデューサーのものではなくて、私は思わず日向の顔を見つめた。

彼はグラスの水滴を指でなぞりながら、また何故か、少しだけ寂しそうな顔を浮かべていた。

「……多分、合宿なんて来年はやれないからさ」

「えっ」

唐突な言葉に、サトルの箸が止まる。

「……忙しく、なる?」

私が恐る恐る尋ねると、日向は小さく息を吐き、視線を落としたまま答えた。

「練習の頻度落とすとか、そこまでは考えてないけど。とりあえず夏休みは多分、あるようでない。……実習があったり、共用試験の勉強とかでだいぶ潰れると思う」

共用試験。実習。

その単語が、彼の生きている『医学部』という別の世界の重力を、一瞬にしてこの定食屋のテーブルに持ち込んだ。

日向が、私たち普通の大学生とは全く違う、過酷で確実なレールの上を歩いているのだという現実。彼がこのバンドを「期間限定のモラトリアム」だと割り切ろうとしている理由が、そこにはっきりと形を持って現れていた。

少しだけしんみりしそうになった空気を察知したのか、日向はハッとしたように顔を上げ、いつもの不機嫌そうな仮面を被り直した。

「……お前らだって、先のことちゃんと考えて、インターンとか行くなら行けよ。俺はそんなとこまで面倒見るつもりないからな」

照れ隠しのように、わざと突き放すような冷たい口調。
感傷に浸りかけた自分を誤魔化すようなその不器用な強がりに、サトルが大袈裟に顔をしかめた。

「げーっ! そんなこと言ったって、俺らまだ大学一年なんだって! インターンなんて早すぎるっての!」

「そうそう。日向はお父さんみたいに先回りしすぎなんだよ」

マサキも便乗して笑い、いつもの騒がしい空気が戻ってくる。

日向は「……勝手にしろ」と呆れたようにため息をつき、ようやく自分の箸を持ち上げた。

(そっか。……来年は、ないんだ)

私は定食の味噌汁を啜りながら、賑やかに笑い合うメンバーと、少しだけ眉間に皺を寄せた日向の横顔を密かに見つめた。

この、何もかもを忘れて音楽だけに没頭できる熱い夏は、きっと最初で最後だ。

だからこそ、彼はあれほどまでに急いで、焦るように、私たちの一番綺麗な音を形に残そうとしているのかもしれない。

終わりの時間が決まっている砂時計を、彼だけがずっと見つめているような気がして、胸の奥がきゅっと締め付けられた。