音に溺れる




その日、スタジオを出たあと、
正樹が自販機の前で笑って言った。
「なぁ、あいつ正式に入れようぜ。日向」

憬がコーラのプルタブを引きながら頷く。
「異論なし。あいつの音、気持ちいい」


私は缶コーヒーを握ったまま、
スタジオの奥で片づけをしている日向の背中を見ていた。
黒いシャツの肩越しに、汗が光っている。


「ねぇ、日向」
声をかけると、彼は少しだけ振り返った。
「さっきの曲、すごくよかった。
……もしよかったら、正式に一緒にやらない? 私たちと」

一瞬、彼は目を伏せてから、小さく笑った。

「参加してもいい。
……ていうか、したい」

その言葉に、胸が少し跳ねた。
でも、すぐに彼は続けた。

「――ただ、覚えといてほしい」

そのときの彼の声は、
どこか寂しげで、でも覚悟のある響きだった。

「ずっとは続けられない。……3年か、4年が限度だと思う」

「……どうして?」

「大学、医学部なんだ。
――将来は、医者になるつもりだから」


その一言で、彼の世界の“遠さ”を感じた。
私たちは音楽で一瞬を燃やす人間で、
彼は未来に向かって生きる人だった。

それでも――
その夜、彼が奏でたピアノの音を、
私はきっと一生忘れない。