音に溺れる







夏休み初日。

冷房の効いたいつものスタジオで、日向は黒のマーカーを手に取り、ホワイトボードに夏の主な予定を書き付けると、私たちに向かって声を上げた。

“8/24 代々木公園 ロックイベント”
“9/1-5 湘南 コテージ貸切合宿”
“9/15 下北沢shelter w/ ocean knock”

「さて。今日から夏休みなわけなんだが」

マーカーのキャップをカチリと閉め、日向は私たち三人を見渡した。

「正直、これ以外何も決まってない」

パイプ椅子に座っていたマサキが、「まぁ、インディーズバンドの夏なんてそんなもんっしょ」と笑う。
私もサトルもそれに同意するように頷いた。

けれど、日向はホワイトボードの前に立ったまま、少しだけ居心地が悪そうに首の後ろを掻いた。

「俺は特に希望はないけど。……お前ら、せっかく大学一年の夏休みだろ?」

「え?」

「一日くらい、遊ばない?」

その言葉に、スタジオの空気が一瞬だけピタリと止まった。

サトルもマサキも、目を丸くして日向を見つめている。私も思わず、手にしていたペットボトルを取り落としそうになった。

(……日向が、そんなこと言うなんて……!)

徹底的な合理主義で、音楽以外の『無駄な時間』を何よりも嫌うあの彼が。自ら「遊ぼう」と提案してくるなんて、明日は槍でも降るんじゃないか。

私たちのあからさまな動揺を察して、日向は少しムッとしたように顔をしかめた。

「いや……俺は別に、遊ぶのが嫌いな訳じゃない」

言い訳をするように、少しだけ早口になる。

「去年は去年で、お前らが受験だっていうから遠慮してただけで。……大体、俺にとっても無邪気に遊んでられる最後の夏かもしれないし」

論理的な理由を並べて自分を正当化しようとしているけれど、要するに彼は、私たちの『初めての大学の夏休み』に気を遣って、思い出作りを提案してくれているのだ。

冷徹なプロデューサーの仮面の下にある、そういう不器用な優しさを知っているから、私たちは誰も彼をからかったりはしなかった。

「……まぁ、だから適当に案言ってけよ」

日向が再びマーカーを手に取り、ホワイトボードに向き直る。

その背中を見て、マサキが一番に元気よく手を挙げた。

「はい! ディズニーランド行きたい!」

「はいはい」と、日向は小さく息を吐きながら、ホワイトボードの端に『ディズニーランド』と書き付ける。

「せっかくだし、USJは?」

サトルがニヤニヤしながら便乗する。

「勿論、日向の運転で」

「お前な……東京から大阪まで車で往復とか、ただの罰ゲームだろ」

日向が眉間を揉みほぐしながらも、一応『USJ(※俺の運転以外)』と書き足す。そのやり取りがおかしくて、私はふふっと声を上げて笑った。

「シキは? なんかないの」

サトルに話を振られ、私は少しだけ首を傾げて考えた。
遊園地も海もいいけれど、せっかくこの四人で出かけるなら。

「遊びって感じじゃなくなるかもだけど……知らない場所で、路上ライブとかもやってみたいんだよね、私」

ただの女の子としての我儘じゃなくて、このバンドの『ボーカル』としての、純粋な好奇心。
私のその提案を聞いて、日向はホワイトボードにペンを走らせる手を止め、露骨に嫌そうな顔をして振り返った。

「うわー……許可取ったり、面倒くさそうなこと言う……」

心底げんなりしたようなその声に、今度はマサキとサトルが堪えきれずに吹き出した。私もつられて、声を上げて笑ってしまう。

「言い出しっぺなんだから、日向が許可取りやってよ!」

「絶対嫌だ。年長者だからって何でもかんでも押し付けようとするな。俺は雑用係じゃない」

「えー、冷たい!」

狭いスタジオの中に、笑い声と夏の気配が満ちていく。

こんな風に、他愛もないことで笑い合える時間が、ずっと続けばいいのに。

『水瀬さん』という女の子の存在も、私が抱えている息の詰まるような片思いも、全部この冷房の風と一緒に吹き飛ばして。
ただの気の置けないバンド仲間として、このままずっと、無邪気な夏休みを過ごせたらいいのにと。
ホワイトボードの前で呆れたようにため息をつく彼を見つめながら、私は心の底からそう願っていた。