音に溺れる




大学の図書館に併設された自習スペース。
机の上に山のように積まれた解剖学の膨大な過去問と資料を前に、俺は水瀬と向かい合って座っていた。

「ここは?」

水瀬がボールペンの先で、頭蓋骨の複雑な図解の一部をコツンと叩く。

「覚えた。蝶形骨」

即答すると、水瀬は「ふぅん」と少しだけ悔しそうに目を細め、次の問題を探すように資料のページをめくった。

静かな空間に、紙の擦れる音とエアコンの駆動音だけが単調に響く。

その時、机の端に裏返して置いていた俺のスマートフォンが、ブブッと短く震えた。

視線を落とし、画面をタップする。

通知画面に表示されていたのは、シキからのメッセージだった。

『歌詞、できた。あとで時間ある時に確認よろしく』という短いテキストと共に、長文のファイルが添付されている。

「ん?」

俺の視線がスマホに釘付けになっているのに気づいたのか、水瀬が資料から顔を上げた。

「いや。シキから、歌詞出来たってきただけ」

画面をスクロールしながら答えると、水瀬は少し意外そうな声を出した。

「へぇ……御崎君が歌詞も書いてる訳じゃなかったんだ」

「俺が、そういう情景とか感情みたいなの書けそうな人間に見えるか?」

自嘲気味に鼻で笑いながら問い返すと、水瀬は俺の顔をじっと見て、ふふっと笑った。

「あんまり」

「だろ。正解だ」

俺はスマホの画面に視線を戻し、シキから送られてきたばかりの歌詞に素早く目を通した。

(……なるほど)

ざっと読んだだけでも、彼女がこの数日間でどれだけ自分の中の感情を掘り下げて、剥き出しの言葉を引っ張り出してきたかが伝わってくる。

俺の作った無機質なデモ音源のメロディに、生々しいほどの熱と痛みが乗っかろうとしているのが、文字面だけでもはっきりと分かった。

「どうだった?」

向かいから水瀬が覗き込むように聞いてくる。
俺は小さく息を吐き、画面をロックしてスマホを机に置いた。

「んー、ぱっと見いい感じ。彼女、言葉選びのセンスは凄くいいと思ってる」

曲を作った側の人間としての客観的な評価。そこには紛れもない本心があった。

シキの言葉は、俺の想定をいつも少しだけ裏切って、曲を全く別の次元へと引き上げてくれる。

「……ただ、音楽として見た時に気になる点は何点かあるから、そこは修正させるけどな。サビ前の母音の抜け方とか」

「出た。御崎君のそういう細かいこだわり、絶対ボーカルの子に嫌がられてるよ」

水瀬が呆れたように肩をすくめる。
俺は反論せず、ただ微かに口角を上げていた。

「ーーなんか嬉しそうだね、御崎君」

唐突な水瀬の指摘に、俺は少しだけ目を丸くした。

「……そうか?」

「うん。なんか、生き生きしてる」

水瀬は頬杖をつき、面白そうに俺の顔を観察している。
指摘されて初めて、自分が今、ひどくリラックスした、自然な笑みを浮かべていたことに気がついた。
誤魔化すのも面倒になって、俺は素直に認めることにした。

「……まぁな。誰かとちゃんと音楽やるの、あいつらが初めてだし」

シキの剥き出しの言葉、サトルの安定したベース、マサキの正確なリズム。

それらが俺の構築した論理とぶつかり合って、全く予測できない熱を生み出していく。

「こういう化学反応、実はすごい楽しんでる」

自分でも驚くほど、素直な言葉が口を突いて出た。
誰にも自分の領域を侵されたくなかった俺が、他人の感情や才能が自分の音楽に混ざり合うことを「楽しい」と感じている。

それは、俺という人間にとって、かつてないほどの巨大なエラーであり、最高の喜びでもあった。

その顔を見て、水瀬は満足そうに微笑み、再び手元の過去問へと視線を落とした。

「じゃあ、夏休み追試地獄になって、その楽しいバンド活動ができなくならないように頑張らなくちゃね。はい、次。側頭骨の構造」

「……分かってるよ。ええと、鱗部と……」

再び解剖学の用語を口にしながら、俺は机の端のスマートフォンをちらりと一瞥した。

早くこの試験を終わらせて、スタジオに戻りたい。あいつらと音を合わせたい。

そんな急かすような衝動を胸の奥に飼い慣らしながら、俺は再び、冷たい医学の論理の世界へと意識を沈めた。