サトルの放つ穏やかな空気に甘えながら、私はテーブルの上に放り出していた自分のスマートフォンに視線を落とした。
真っ黒な画面の向こうに、何の言葉も引き出せなかった日向の冷たいデモ音源が眠っている。
それを見透かしたように、サトルがグラスの結露を指で拭いながら口を開いた。
「歌詞、進んでないんだろ。……日向にLINEでも聞いてみれば?『どんな曲にしたいと思って書いた?』って」
至極真っ当なアドバイスだった。ボーカルとコンポーザーなんだから、行き詰まったら擦り合わせをするのはバンドとして当然の作業だ。
でも、私は力なく首を振った。
「あの人、それ聞いてもいっつも訳わかんないコード進行とか、理論の話ばっかりしだすもん。情景とか感情とか、そういう言語化は全部私に丸投げのくせに」
「あー……目に浮かぶわ、それ」
サトルが苦笑する。私もつられて笑おうとしたけれど、口元がうまく上がらなかった。
「だいたい、今は試験前で忙しいでしょ。邪魔したくないし」
ストローを指先で弄りながら、私は一番の核心であり、自分にとって一番残酷な事実を口にした。
「……それに、そんな用のないLINE、送れる仲でもない」
業務連絡と、音楽の話。それ以外で日向と繋がる術を、私は持っていない。
『今何してる?』『歌詞できなくて苦戦してるよ』なんていう、ただの世間話や弱音を吐くためのLINEを彼に送る権利は、ただの『バンド仲間』である私にはないのだ。
ふと、あのライブ終わりの喧騒が脳裏をよぎる。
『……お前な……。何でそんなこと急に言い出すわけ……』
そう言いながらも、確実に熱を帯びていた彼の声。
面倒くさそうにしながらも、絶対に彼女を無下にはしなかった、あの普通の男の子の顔。
(……あの人は、休日の夕方に、突然日向に連絡入れて、それで応えてもらえるんだ)
私には絶対にできないこと。私がやったら「くだらない用で時間を奪うな」と一蹴されるか、無視されるであろうことを、『水瀬』という女の子は、いとも簡単にやってのける。
日向の完璧なスケジュールを壊し、彼のペースを乱し、彼の『論理』を飛び越えて、あっさりと彼の時間を奪っていく。
それに比べて、私はどうだろう。
彼の邪魔をしないように、彼の役に立つようにと、ただ与えられた曲という宿題の前で一人身動きが取れなくなっている。物分かりのいい、手のかからない、便利な『楽器』のまま。
「……シキ?」
黙り込んだ私を気遣うように、サトルが覗き込んでくる。
「ううん、何でもない。……やっぱり、もうちょっと自分で粘ってみるよ。せっかく日向が作った曲だしね」
私は慌てて笑顔を取り繕い、目の前のアイスコーヒーを一気に飲み込んだ。

