音に溺れる





「行ってきまーす」

誰もいない玄関に向かって小さく呟き、私はドアを閉めた。

今日は渋谷の複数のライブハウスが合同で主催する、いわゆる『サーキットイベント』の日だった。
リストバンドを見せれば複数の会場を自由に行き来できるこのお祭りは、インディーズバンドにとって「初見の客をどれだけ自分たちのフロアに引きずり込めるか」という、残酷でシビアなショーケースでもある。

渋谷へ向かう私鉄の車内は、お目当てのバンドのラバーバンドを手首にジャラジャラとつけた、いかにもな音楽好きの若者たちで混み合っていた。

私はドア横のスペースに寄りかかりながら、イヤホンから流れる自分たちのデモ音源に耳を傾けてセットリストを確認していた。

「ねぇ、今日のフェスさー、どういう感じで回ろうか?」

ふと、ノイズキャンセリングの隙間を縫って、すぐ隣に立つ同年代の女の子たちの話し声が耳に飛び込んできた。

彼女たちはスマートフォンの画面――おそらくイベントのタイムテーブルの画像――を指差しながら、楽しそうに作戦会議をしている。

「サマーレモネードは絶対でしょ? 入場規制かからないかだけ不安だなー」

サマーレモネード。最近SNSで爆発的にバズっている、ポップで爽やかなギターロックバンドだ。今日一番の目玉アクトで、おそらく一番大きな会場を満員にするだろう。

……いいな。私たちみたいな無名のバンドのフロアには、果たして何人の人が来てくれるんだろう。
そんな自嘲気味なため息をこぼしかけた、その時だった。

「……あ、あとさ。私この”Sound Jam”ってバンド気になってるんだよね。YouTubeで見たんだけど、ボーカルの声がすごく迫力あって」
「え、どれどれ? あー、おっけー。タイテ被ってないし、じゃあそれ行こうかー」

ドクン、と。
心臓が、肋骨を突き破りそうなほど大きく跳ねた。
私は思わず息を呑み、バレないように前髪の隙間から隣の彼女たちを盗み見た。

間違いない。彼女のスマホの画面には、私たち『Sound Jam』のロゴと、私がマイクを握りしめているあのサムネイル画像が映し出されていた。

(……私たちのこと、話してる)

手足の先がジワジワと熱くなっていく。

彼女たちは、ボーカルである私がたった数十センチ隣に立っていることなんて気づきもせず、また別のバンドの話題へと移っていった。
けれど、私の耳にはもう電車の走行音も、他の雑音も入ってこなかった。

『YouTubeで見たんだけど』。

その言葉が頭の中でリフレインする。

あの動画は、日向が「アルゴリズム上、初見のクリック率が最も高くなる」という理由で、曲のサビから始まるようにわざわざ再編集してアップロードしたものだった。

私が「曲はイントロから順番に聴いてほしい」と文句を言っても、彼は『無名のバンドのイントロを10秒間我慢して聴いてくれるほど、今のリスナーは暇じゃない。お前の声を最初に置くのが最適解だ』と冷たく切り捨てたのだ。

あの冷徹な計算が、今、目の前で「見知らぬ誰かの心を動かす」という現実の現象になって現れている。

(……すごい。本当に、日向の計算通りだ)

悔しいくらいに、あの男の言うことはいつも正しい。

でも、不思議と嫌な気はしなかった。彼が冷たい数字とエクセルで組み上げた完璧な導線の上で、私の歌声が確かに誰かに届いている。その事実が、たまらなく誇らしかった。

私は少しだけ強くスマートフォンの画面を握りしめ、顔を上げた。

誰もいないフロアに向かって歌うかもしれないという恐怖は、もうどこかへ消え去っていた。