音に溺れる




日向は変わらずタブレットと睨めっこしながら、何かを計算しているようだった。

画面をスクロールする指の動きに合わせて、彼の無機質な黒い瞳に青白い光が反射している。

その頭の中はきっと、次のスタジオ代やチケットのノルマ、あるいは医学部の小難しい数式で埋め尽くされているのだろう。

いつもそうだ。

私と彼はいつも、こうして向かい合って同じ空間にいても。同じものを見ているようで、決して同じ世界を見てはいない。

彼の見ている現実は、あまりにも冷たくて、重くて、私には到底手の届かない場所にある。


だから私は、せめてグラスの氷が溶ける音をBGMにしながら、彼がノートの端に走り書きした新しい曲のスコアを指でなぞる。

それでも私は、彼の曲を歌うことで、ほんの少しだけでも彼に近づきたいと思う。

知りたいのだ。彼が作った、この音の意味を。

どんな景色を見て、どんなことを思い浮かべて、この和音を並べたのか。そのメロディのうねりの中に、ボーカリストとしての『私』の存在は、1ミリでも介入していたのか。

(……ねぇ、日向。この高いキーは、私が歌うことを想像して書いてくれたの?)

口に出して聞くことなんて、絶対にできない。

もし「誰が歌ってもいいように作った」なんて合理的な答えが返ってきてしまったら、私と彼を繋ぐ唯一の細い糸まで、プツリと切れてしまう気がするから。

「……どうかしたか?」

不意に、タブレットから視線を上げた日向と目が合った。
私は慌ててスコアから手を離し、なんでもないように首を振る。

「ううん。次の曲、すごくかっこいいなって思って」
「……お前の声が乗って、初めて完成する曲だ。しっかり喉仕上げとけよ」

日向はそれだけ言うと、またすぐに自分の計算の世界へと戻っていってしまった。

『お前の声が乗って、初めて完成する』。

その冷たくて純粋な、プロデューサーとしての評価。
それだけでいい。それ以上の言葉なんていらない。
言葉にならない憧れを抱えて、私はいつも彼の隣にいる。

多くは望まない。

彼が私を「女」として見てくれなくても、彼に他の誰かがいても。この、彼が作った完璧な音楽という檻の中だけは、私だけの特等席だから。

どうか、この関係が少しでも変わってほしくない。

このまま、彼が医学部を卒業して手の届かない遠くへ行ってしまうその日まで。

彼の一番近くで音を鳴らす『楽器』として、この残酷なほど心地よい鳥籠の中に、ずっと閉じ込められていたい。

『鳥籠』『グラスの氷が溶ける音』『手書きの五線譜』ーー沢山の『愛しい宝物』。
それらをキーワードのように書き並べながら、私はゆっくりと生暖かい息を吐いた。

きっといい曲になる。
そんな根拠のない予感に胸を膨らませながら。