音に溺れる




深夜のファミリーレストラン。
テーブルに広げたノートには、書きかけては二重線で消された言葉の残骸が散乱していた。

向かいの席では、日向がタブレットでバンドの収支表やスコアをスクロールしながら、冷めたコーヒーを静かに飲んでいる。

「……あー、もう!」

私はシャーペンをノートの上に放り出し、頭を抱えた。

「『恋愛の曲』って多いけど、難しい」

日向は画面から目を離さず、「そうか」とだけ短く相槌を打った。

その無関心な態度に少しだけ苛立ちながら、私は核心に触れるための助走として、自嘲気味に言葉を続ける。

「だって私、正直ちゃんと恋愛したことってないし。……想像で書こうとしても、なんか薄っぺらくなるっていうか」

日向の指の動きがピタリと止まる。
私はそのわずかな隙を見逃さず、ずっと聞きたかった、けれど聞けなかった問いを、あくまで「作詞のための参考」という顔をしてぶつけた。

「日向は、恋人いたことある? ていうか……今は、いる?」

心臓の音がうるさい。

日向はゆっくりとタブレットから顔を上げ、私を真っ直ぐに見た。その静かで底知れない黒い瞳に射抜かれ、私は思わず目を逸らしそうになる。
数秒の沈黙の後、彼は面倒くさそうに、ふっと短く息を吐いた。

「……俺に恋人がいるかはともかくとして」

(躱された)

私が落胆する隙も与えず、彼は冷たい声のまま、ひどく抽象的で、けれど生々しい話をし始めた。

「恋愛って枠で、無理に括ろうとしなくていいと思う。……例えば、読んだ本が面白くて、作者がどんな人生送ってきたか気になったりとか。ふとすれ違った子の顔が綺麗で、一瞬だけ網膜に焼き付いて離れなかったり」

日向は窓の外、深夜の国道を行き交う車のテールランプをぼんやりと見つめながら言葉を紡ぐ。

「そういう、日常の中の小さな『愛しい』だって、十分詩にできると思う。お前が歌うなら、そういう形の定まらない執着や熱の方が、よっぽど説得力が出る」

彼の口から出た『愛しい』という単語に、私はドキリとした。
いつも効率と数字の話しかしない彼の内側に、そんな微細でポエティックな感情の揺れ動きが存在していること。そして、それをこんなにも的確に言語化できることに、私は圧倒されてしまった。

「……なんかもう、日向が詩書けば?」

私は完全に白旗を揚げるように、ノートの上で突っ伏した。

「人生観、完全に負けた気がする。日向が自分で作った曲なんだし、自分で詞を書いた方が、絶対いい曲になるじゃん……」

ボーカリストとしてのプライドも捨てて拗ねる私を見て、日向は今日初めて、微かに口角を上げて笑った。

けれどその直後、彼は手元のマグカップを弄りながら、ひどく嫌悪感に満ちた声で吐き捨てた。

「恥ずかしいから絶対ヤダ」

「……は?」

「自分の内側の感情を、いちいち言葉にして晒し上げるなんて悪趣味だ。……だからお前が書け。俺は音を並べるだけで十分だ」

そう言って、彼は再びタブレットの画面へと視線を戻してしまった。