音に溺れる





向こうそれ以来どういうつもりかは知らないが、俺に興味を持って接してくるようになり、こうしてたまに隣の席で講義を受けるようになっていた。

『へぇ、御崎君って、部活やってないのね』
『過去問とか、苦労するでしょ? 助けてあげるよ』

医学部の試験は、個人の頭の良さ以上に「縦の繋がりから降りてくる過去問」がものを言う情報戦だ。陸上部という強固なネットワークを持つ彼女から、そんな風に明確なメリットを提示されると、俺も無碍に扱うわけにはいかず、その合理的な取引に応じるしかなかった。

正直、学年でも目立つこいつと隣の席で講義を受けると、周囲の男たちから余計なヘイトを買うし、変な噂も立ち始めているしで、あまり本意ではないのだが。

「……で?」

教授が黒板に向かって複雑な代謝経路を書き始めた隙を突いて、水瀬がノートの端に落書きをしながら、楽しげな小声で囁いてきた。

「打ち上げってことは、昨日もライブだったんだ? ねぇ、いい加減御崎君のバンドの名前教えてよ。調べても全然出てこないんだよねー」

「……当たり前だ。まだ教えるような規模じゃない」

「えー、ケチ。名前くらい減るもんじゃないでしょ」

俺は痛むこめかみを押さえながら、小さくため息をついた。

俺は別に、本名を隠して活動したりしているわけじゃない。
ただ、”sound jam” はまだ、フォロワーがようやく500人を超えた程度の、駆け出しのインディーズバンドだ。

たかだか500人。

それは、渋谷の小さなライブハウスすら埋められない数字だ。俺の名前で検索したって、星の数ほどあるインディーズの海に埋もれて、検索エンジンの上位に引っかかるわけがない。

俺の作る曲は、理論的にも構成的にも絶対に間違っていないという自負はある。

だが、それを「数字」という目に見える結果として証明できていない以上、完璧主義の俺にとって、それはまだ他人に――特に、水瀬のような能力の高い人間に――胸を張って見せられるような代物ではなかった。

「……もう少し、形になったら教えてやる」

「形って?」

「数字だよ。誰が検索しても、一番上に出てくるようになったらな」

俺がそう言ってノートに視線を落とすと、水瀬は不満そうに少しだけ唇を尖らせた。

「ふーん。御崎君らしいけど、つまんないの。……私、完成されたものより、作ってる途中のものを見る方が好きなのに」

水瀬のその言葉に、俺のペン先がほんの一瞬だけ止まった。
完成された正解だけを提示するのが、俺の生き方だ。

泥臭い過程や、這いつくばって数字を稼ぐ無様な姿なんて、誰にも見せたくない。
けれど、隣に座る彼女だけは、俺が隠したがるその「不完全な余白」にこそ、手を伸ばそうとしてくれているような気がした。

「……あとで、InstagramのID送る。……絶対に、誰にも言うなよ」

「本当!? やった。内緒にしとく」

観念したように俺が絞り出すと、水瀬は今日一番の、花が咲くような嬉しそうな笑顔を見せた。

二日酔いの頭痛のせいか、それとも別の理由か。

俺は急に居心地が悪くなり、ごまかすように教授の板書をノートに書き写すスピードを上げた。