音に溺れる




店を出たのは午前0時過ぎだった。

駅前で、サトルは少しだけ足取りを早めて私の隣に並んだ。

「……送るよ。もうこんな時間だし、一人じゃ物騒だろ」

街灯に照らされたサトルの顔は、いつになく真剣だった。

実際、この時間に一人で歩くのは怖い。あかりが少しずつ落ちていく夜の街は、どこか得体の知れない不安を孕んでいる。

それでも、私は「大丈夫」と言って、その手をやんわりと拒絶した。

「一人で帰れるから。サトルこそ、家あっちでしょ」

サトルに期待させるようなことは、もう一ミリもしたくなかった。

彼から最初に『好きだ』と言われたのは、まだ私たちが13歳とか、そのくらいの子供だった頃だ。

それから数えきれないほどの時間が過ぎたけれど、彼はことあるごとに、まるで挨拶でもするかのように好意を伝えてくる。もう5回目か、それ以上か。正直、数えるのもやめた。

(……ばかじゃないの、と思う)

いくら言葉を重ねられたって、私はサトルをそういう対象としては見られない。

彼の優しさは私を甘やかすけれど、私の心を震わせることはない。それなのに、諦めもせずに私の隣に居続けようとする彼が、たまらなく滑稽で、少しだけ哀れに思えた。

「……そうか。じゃあ、駅までな。改札入るの見届けるまで、俺は動かないから」

サトルは寂しそうに笑って、少しだけ距離を開けて歩き出した。
その背中を見つめながら、私はふと、周囲から投げかけられる言葉を思い出していた。

『シキちゃんって、実は日向くんのこと好きなんじゃないの?』

でも、それは絶対に違う。

確かに日向といると、上手く呼吸ができなくて胸が苦しくなる。けれど、それは恋なんて甘いものじゃない。もっと本能的な、人としての『苦手意識』だ。

あんなに完成された顔をして、完璧な計算で曲を書き、圧倒的な頭脳で私の知らない世界を見ている。

日向と向き合うことは、私に足りないものを、これでもかと残酷に自覚させられる作業でしかない。
彼は、私を映し出す鏡だ。

彼が眩しければ眩しいほど、私は自分がどれほど空っぽで、不完全な存在かを突きつけられる。

息が詰まるのは、彼に恋をしているからじゃない。
彼という『正解』の塊を前にして、自分の『間違い』を暴かれるのが、ただ、恐ろしいだけなのだ。
独りきりになった駅のホーム。

冷たいベンチに座り、私は制作ノートを取り出した。

そこには、日向が引いた完璧な五線譜と、私の稚拙な文字が並んでいる。

「……苦しいよ、日向」

吐き出した声は、走り去る電車の音にかき消された。

苦手なはずなのに、拒絶したいはずなのに、私はまた、彼が作った檻の中で、彼に届くための言葉を探し始めていた。