音に溺れる




「ーー本日、当日券の販売はありません! 満員となっております!」

「最後、物販何か一つでもお買い上げの方限定で、終演後に握手会やります! 購入時整理券をお渡しするので、絶対に紛失しないようお願いいたします!」

「入場時、本日限定のzineを配付中です! 是非受け取ってくださーい!」

分厚い鉄扉の向こう側から、スタッフたちの張り裂けんばかりの声と、フロアを埋め尽くす観客たちのざわめきが、地鳴りのように楽屋まで響いてくる。

渋谷クラブクアトロ。キャパシティ800人。

インディーズバンドの私たちにとって、見上げるほど高かったはずの壁は、文字通り『超満員』の熱気で今にも弾け飛びそうになっていた。

「やばい、アガッてきた。無理」

私はパイプ椅子に座ったまま、頭を抱えてぐるぐるとうめき声を上げた。

手汗が止まらない。心臓が口から飛び出そうなくらい、バクバクと暴れ狂っている。

「歌詞飛んだらどうしよう、セトリ飛んだらどうしようーーー!!」

「落ち着けって、シキ。お前がセトリ飛んでも、俺らが無理やり次の曲のイントロ鳴らすから嫌でも思い出すだろ」

隣でベースの弦を弾いていたサトルが、呆れたように笑いながらツッコミを入れる。ドラムのマサキも「最悪、シキが飛んだら俺が歌うわ」などと的外れなフォローを入れてきて、余計にパニックに拍車がかかる。


だって、今日が最後なのだ。

『Sound Jamの湊シキ』として、彼が作った最高のシステムの中で歌える、本当に最後の一秒まで。
絶対に、絶対に失敗なんてしたくない。彼の中に残る私の姿を、完璧な『最高のボーカル』のままで終わらせたいのに。

「……シキ」

ふと、頭上から静かな声が降ってきた。

顔を上げると、黒いステージ衣装に身を包んだ日向が、見下ろすように私を見つめていた。

いつも通り、微塵も緊張を感じさせない、冷ややかで端正な顔立ち。けれど、その瞳の奥だけは、静かな炎のように確かな熱を帯びている。

日向は私の頭にポン、と軽く手を置くと、淡々と言い放った。

「歌詞が飛んだら、適当にフェイク入れて誤魔化せ。お前がどんなメロディ歌っても、俺が瞬時にコード変えて合わせる」

「えっ……」

「セトリが飛んだら、MCで適当に繋げ。俺が次の曲のイントロを弾き始めるまで、お前はただ堂々とステージの真ん中に立ってりゃいい」

それは、プロデューサーとしての絶対的な自信と。
『お前なら絶対にできる』という、私への揺るぎない信頼の証だった。

「いいか。今日はお前が主役だ。全部俺がカバーしてやるから、お前は何も考えずに、ただ全部燃やし尽くしてこい」

彼のその力強く、不器用なほどに優しい言葉に。
張り詰めていた緊張の糸が、ふっと心地よく解けていくのを感じた。

「……うんっ!」

私は立ち上がり、強く頷いた。

そうだ。私が迷子になっても、彼が、皆が必ず正しい道を示してくれる。ずっとそうやって、音楽を作ってきたんだから。

「ーー行くぞ」

日向が振り返り、私たちメンバー全員を見回す。
分厚い扉の向こうで、開演を告げるSEが爆音で鳴り始めた。

あと一年、と宣告されたあの日から今日まで。息が止まるほど全力で駆け抜けてきたカウントダウンが、今、ついにゼロになろうとしていた。