音に溺れる




「あー、マジで腹減った。今日このあと駅前のラーメン屋寄ってく奴いる?」

スタジオを出て機材を背負い直しながら、サトルが大きく伸びをして言った。

マサキが「行く行く」と即答する横で、日向はスマホの画面から顔を上げずに「俺はパス。明日朝早いから」と短く返した。

「そ。じゃ、また来週な」

「お疲れ」

ひらひらと手を振って、駅とは反対の方向へ歩き出す日向の背中を見送る。

綺麗に伸びた背筋と、少しだけ重たそうな足取り。

日向は、練習終わりに遊びに誘っても滅多に乗ってこない。彼が大学2年になってからは、本当に、片手で数えるほどしか寄り道をしていない気がする。

私たちのことが嫌いとか、ノリが悪いとか、そういうことじゃない。
単純に、本当に息をつく暇もないくらい忙しいのだと思う。
医学部の学生としての、人の命を預かるための膨大な勉学。

生活費と、決して安くないスタジオ代などのバンド活動費を稼ぐためのアルバイト。

それに加えて、ライブハウスとの交渉やSNSの運用といった、sound jamのありとあらゆる裏方の雑務まで、彼は文句ひとつ言わずに引き受けてくれている。

――彼がどれほど疲弊しているのか。それを私が「想像」するしかないのは、日向が自分のプライベートをあまり多く語らないからだ。

例えば、隙間時間でどんなバイトをしているのか。
実家暮らしなのか、一人暮らしなのか。

どうして、あれほどまでに美しく、悲しいほど綺麗なピアノを弾けるのか。

もちろん分かっている。彼だって同じ人間で、完璧な機械じゃない。スタジオで最高の音が鳴った時、私たちと一緒に笑い合ってくれるあの瞬間の体温は、絶対に嘘なんかじゃない。

それでも、彼という人間の「何に」、「どこまで」触れていいのか、私はいつも分からなくなる。

不用意に踏み込めば、彼を囲う見えないガラスの壁ごと、すべて壊してしまいそうな気がして。

「おーい、シキ。何ぼーっとしてんの。お前もラーメン行くっしょ?」

サトルの少し乱暴で、遠慮のない声にハッと我に返る。
振り返ると、サトルとマサキが呆れたような、でもどこか安心するような顔で私を待っていた。

「……行く。チャーシュー麺おごってくれるなら」
「はあ!? なんで俺がおごる前提なんだよ!」
「サトル、シキには甘いからなー」
「うるせえマサキ!」

ぎゃあぎゃあと騒ぎながら夜道を歩き出す二人の背中を追いかける。

……だからこそ、こうやって昔馴染みであるサトルやマサキといる方が、気は楽なのだ。

言葉を選ばずに何でも言えるし、沈黙が痛くない。
なにより、ふいに見つめられた時に、心臓が痛いほど跳ねて、息が詰まるような感覚を覚えることもないのだから。