音に溺れる




「お世話になっております、タウンレコード渋谷の山本と申します。御崎さんのお電話でお間違えなかったでしょうかー」

大学の空き教室。周囲に誰もいないことを確認して電話に出た俺の耳に、少し軽薄そうな、けれど聞き慣れた業界のトーンが響いた。

「ーーお送りいただいたサンプル、聴かせていただきました。是非うちで取り扱いさせてほしいのと、それから、発売日ちょうどイベントスペースが空いてて……良ければ、ミニライブを企画させて頂ければと」

「……っ!」

思わず、息を呑む音が漏れた。
渋谷の大型CDショップでの取り扱い。そして、インストアライブの確約。それはインディーズバンドにとって、喉から手が出るほど欲しい明確な『結果』だった。

「本当ですか! 嬉しいです、ぜひお願いします……!」

自分でも驚くほど、弾んだ声が出た。
いつもならもっと冷静に、条件やマージンを確認するはずのプロデューサーとしての理性が、この時ばかりは完全に吹き飛んでいた。

通話を終え、スマートフォンの真っ暗な画面を見つめながら、長く、深い息を吐き出す。

全身の血が沸き立つような、痺れるような高揚感。

(ーー本当に)

こんなにも魂を捧げられるものが。

打算も計算もなく、心の底から『綺麗だ』と思えるものが。
冷めていく一方で、大人になっていく自分の中に、まだ確かに存在したこと。

もう、こんなに音楽に夢中になれるのは。自分のすべてを燃やし尽くしたいとまで思うのは。もう、後少しで否応なしに終わる。


……逸る気持ちを抑えながら、机の上に広げた制作途中の楽譜にそっと目を落とす。

その隣には、先日シキが渡してくれた、不格好な作詞ノート。

そこには、彼女が身を削るようにして書き出した、剥き出しの言葉が並んでいた。

ーー結局、憧れだけで触れられなかったことに対する鈍い痛みを、否応なしに想起させるような。

相手を神格化しすぎて、手に入らないと絶望して、それでも諦めきれずに泥をすするような、ひどく惨めで美しい感情の羅列。

それをなぞるうちに、俺の胸の奥で、蓋をしていたはずの古傷がズキリと痛んだ。

(……分かるよ。シキ)

ノートの文字を指先でなぞりながら、誰にともなく心の中で呟く。

(俺も、そうだった)

あの人の、何にも媚びない意思の強い瞳に惹かれて。
自分の手の届く安全な檻に閉じ込めたいとさえ思ったけれど、結局、できなかった。

何度言葉で『好きだ』と言われたって、どれだけ肌を重ねて熱を分かち合ったって。彼女の心が本当に手に入ったと実感することなんて、ただの一度もなかった。

『好きだという気持ちと、関係を続ける熱量は別』

そんな冷たい正論で自分を誤魔化してみても、本当は、どうしようもなく焦がれていた。手に入らないと分かっているものに執着する、その鈍い痛みを、俺は誰よりも知っている。

ーーいつも、自分の感情を音楽に載せるのは、嫌ってた。

綺麗なラッピングをして、ノイズを排除して、計算された美しいものだけを出力する。それが俺のやり方だった。自分の生々しい傷跡を見せるなんて、クリエイターとして三流だと思っていたから。
でも。

彼女のこの血の通った詩を、歌に載せるなら。
俺自身も、ちゃんと、向き合わなければいけない気がした。

俺の中にある、水瀬への叶わなかった執着。
自分の弱さ。限界。そして、俺にこれほどの言葉を叩きつけてきたシキへの、名前のつけられない感情。

そのすべてを、音符という形に変換して、彼女の言葉にぶつけよう。

俺の人生で最後になるであろうこの曲だけは、ラッピングなんて引き裂いて、俺の剥き出しの魂を乗せてやる。

シャーペンを握り直し、真っ白な五線譜に向かう。
鉄を打つように、最初の音符を紙に載せた。