音に溺れる




スタジオの重たい防音扉を開けると、深夜の冷たい空気が火照った頬を撫でた。

機材ケースを肩に掛けた日向が、ふと立ち止まって私を振り返る。

「遅くなった。送っていくよ」

いつものように、当たり前のように告げられたその言葉。

けれど、今の私には、彼のその無自覚な優しさがどうしようもなく残酷に感じられた。

「いいよ。……ひとりでかえれる」

「こんな時間に女の子一人で歩かせるわけにいかないだろ。駅まででいいから」

「……こういう時くらい、ちゃんと突き放しなよ」

俯いたまま、絞り出すようにそう言うと、日向の足がピタリと止まった。
私を都合のいい女として扱わず、気高い美学で跳ね除けたのなら。中途半端に優しくして、期待させるようなこと、しないでほしい。

そうじゃないと、私はいつまでも、あなたへのこの醜い感情を諦めきれなくなってしまうから。

私の痛みを孕んだ拒絶に、日向は小さく息を吐いた。

「……単純に、心配くらいさせろ。女の子だろう」

それは、プロデューサーとして、あるいは年上の男としての『責任』という殻を被った、彼なりの不器用な誠実さだった。私を特別な『女』として見ているわけじゃない、ただの『女の子』としての心配。

その言葉の裏にある線引きを正確に理解してしまった私は、ポケットの中で拳を握りしめ、自分を守るための、そして彼を遠ざけるための最強のカードを切った。

「ーーサトルに、迎えに来てもらう。それなら日向も文句ないでしょ」

一瞬。

本当にわずかな一瞬だけ、日向の端正な顔に、目に見えないヒビが入ったように見えた。

「……」

数秒の重たい沈黙の後。
日向はすべてを諦めたように目を伏せ、いつもの感情を読み取らせない冷たい仮面を貼り直した。

「ーー分かったよ。またな」

彼はそれ以上振り返ることなく、深夜の暗い通りへと背を向けて歩き出す。

遠ざかっていくその広い背中を、私はただ、立ち尽くしたまま見送ることしかできなかった。

『またな』

彼が最後に残したその短い言葉が、冷え切った夜の空気の中に溶けていく。

あとすこしで終わってしまうカウントダウンの中で。彼のその気休めみたいな言葉だけが、今の私をギリギリのところで繋ぎ止めている。

(……そう。まだ、終わってない)

彼の背中が街灯の影に完全に消えてしまっても、私はその場から動けなかった。

私たちはまだ、音楽という糸で繋がっている。

彼を拒絶して、彼に拒絶されて、こんなに痛くて苦しいのに。

(また、会える。まだ)

呪いのように、あるいは救いのように心に反響するその言葉を、そっと一人きりで抱きしめる。
温かい涙が、少しだけ、ゆっくりと頬を伝っていった。