音に溺れる




その日の深夜、気づけば俺は、水瀬のアパートのドアを叩いていた。

深夜に疲労を隠せない顔で突然訪れた俺を見て、チェーン越しに顔を覗かせた彼女は、当然のようにものすごく迷惑そうな顔をした。

「……会いたかったから」

言い訳のように絞り出した俺の言葉に、水瀬はひどく呆れたような、けれどどこか諦めたようなため息をつき、静かにドアを開けた。

「……事前に連絡ぐらいしてよね。掃除とかあるんだから。

……風呂入る? 湧いてるけど」

部屋に上がり込み、ネクタイを緩める俺に、彼女は少し距離を置いて尋ねる。

「いや……あとでいい。疲れた」

壁に寄りかかり、目を閉じる。

勉強も音楽も、背負っている全てのものが鉛のように身体を重くしていて、指一本動かすのすら億劫だった。

俺は閉じていた目を薄く開け、少し離れたところに立っている水瀬を見上げた。

「……な、それより……」

「何?」

「ーー抱きしめ、させて」

自分でも驚くほど、素直で情けない声が出た。
水瀬は一瞬だけ目を丸くして固まり、それから、仕方ないというようにゆっくりと近づいてきて、俺の首に腕を回した。

彼女の細い肩に顔を埋める。シャンプーの微かな香りと、人間の確かな体温。それだけが、今の崩れかけの俺をギリギリのところで繋ぎ止めてくれている気がした。

「ーーあんた、ほんっとにごく稀にそういう素直に甘えてくるところ、やめた方がいいと思う。沼だから」

頭上から降ってきた彼女の声は、呆れているようでいて、少しだけ照れを隠すように早口だった。

「……何それ……」

「……調子狂うから。今回限りにしてよねってこと。あんまり得意じゃないのよ。分かるでしょ」

人に甘えるのも、甘えられるのも得意じゃない。
プライドが高くて、弱みを見せることを何より嫌う、気高くて不器用な彼女らしい言い回し。

俺が黙って彼女の背中に回した腕の力を強めると、水瀬は俺の髪を不器用に何度か撫でてから、ぽつりとこぼした。

「……何かあった? 話ぐらいなら聞くけど」

それは、彼女なりの精一杯の歩み寄りだった。
けれど。


(……言えるわけが、ないだろ)


俺は、彼女の肩に顔を埋めたまま、ただ奥歯を噛み締めた。

だって、きっと彼女も俺と同じぐらい苦しんでいるから。

同じ医学科で、同じ量の絶望的な課題をこなして。俺が音楽をやっている時間と同じくらい、彼女は部活に夢中になって、自分の居場所を守るために必死で戦っている。

俺だけが苦しんでいるわけじゃない。
彼女だって、ギリギリのところで立っている一人だ。

それを痛いほど感じ取っているからこそ、彼女に言葉で「もう限界だ」と一言こぼすことなんて。俺が彼女より先に弱音を吐くことなんて、絶対にできなかった。


「……」


「……言わないのね。そうよね、あんたはそういう人間よね」


俺の沈黙の意図を正確に読み取った水瀬は、傷ついた素振りも見せず、ただ静かに、冷たく事実だけを口にした。

「……お互いそうだろ」

俺がそう返すと、水瀬は「そうね」とだけ言って、それ以上踏み込んでくることはなかった。
お互いに、一番苦しいところは見せないし、見ようともしない。
体温を重ね合わせていても、心はずっと遠く離れたまま。

俺たちはこういう『そういう人間同士』だから、きっと、もうすぐ終わるのだ。

彼女の肩に額を押し付けたまま。俺は、この静かでひどく冷たい関係の終焉を、ただじっと待っていた。