音に溺れる




「……じゃあ、俺明日も一限あるから」

そう言って足早に去っていく日向の背中を、私はただ立ち尽くして見送ることしかできなかった。

(そう。私は、結局日向のことなんて、何も知らない)

遠ざかる彼の影が夜の闇に溶けていくのを見つめながら、私は冷たい事実をゆっくりと噛み締める。

彼の曲から詩を書いて、一緒に議論して、一つの曲を作って。

そんな特別な共同作業を通して、私は彼の一番近くにいるような、彼の孤独に寄り添えているような錯覚に陥っていただけ。

本当は、『音楽』という想像のピースで、彼という人間の見えない欠けた部分を、勝手に自分の都合よく埋めていただけなのだ。

彼のことを誰よりも理解してる気になってるだけで。

実際は、何か一歩踏み込んだような、心の琴線に触れるような深い話ができる関係になんて、なれていない。


……たぶん、ずっと、なれない。

あと一年で彼がいなくなるその日まで、私たちはこの『バンドメンバー』という薄氷の上から、一歩も動くことはできないのだろう。

「ーーお、シキ。日向は?」

ふいに、背後から明るい声が降ってきた。
振り返ると、ベースを背負ったサトルが、不思議そうに首を傾げて立っていた。

「……帰っちゃった。明日も朝から勉強なんだって」

「うわ、マジか。あいつほんといつ寝てんだろな」

サトルは呆れたように笑うと、「しゃーない。じゃあ俺たちだけでファミレス寄って帰るか。ポテト奢ってやるよ」と、いつも通りの軽い調子で私の頭をポンと叩いた。

その、あたたかくて遠慮のない掌の温度。

彼の前では、言葉の裏を読む必要も、自分の感情を押し殺して完璧な歌詞を絞り出す必要もない。

(……私が一番”私”でいられて)

何も深読みせずに。嫌われないように、面倒な人間だと思われないように、機嫌を損ねないようにと気を遣わずにいられる場所は。

お互いのことを飾らずに理解していると、心から信じられる場所は。

結局、幼馴染のサトルの隣だった。

「……うん。奢ってもらおっかな」

私が微かに笑って頷くと、サトルは「よしきた」と満足げに笑い、私の歩幅に合わせてゆっくりと歩き出した。

並んで歩く安心感と、彼の隣にいることで得られる確かな温もり。

けれど。
私の頭の中で絶えず鳴り響いているのは、ちっとも安心できない、痛くて苦しい彼の冷たいメロディばかりだった。