新しい季節が始まった。
春の生温い風が吹き始めたというのに、地下の貸しスタジオには、ひどく重たくて息の詰まるような空気が淀んでいた。
練習が終わって、機材の片付けをする日向の背中は、いつになく気怠げで、張り詰めた糸が今にも切れそうなほど疲弊しきっていた。
それでも私は、アンプのコードを巻く彼を、たまらず呼び止めてしまっていた。
「……日向」
ピタリと手が止まり、彼がゆっくりと振り返る。
「……何?」
目の下にうっすらと隈を作ったその表情を見て、私の喉まで出かかっていた言葉は、あっけなく行き場を失った。
本当は、相談したいことがあった。
彼から「詩先でやろう」と提案されてから、どれだけノートと睨み合ってみても。納得のいく言葉が浮かんでこないこと。選び出した言葉に、うまく自信が持てないこと。
こんな風に感情が真っ白になってしまった時、曲作りの要である彼はいつもどうしていたのか、助けを求めたかった。
けれど。
「あっ……と、その。新譜のSNSの情報解禁日、認識合わせしときたいなって、皆が……」
咄嗟に口をついて出たのは、そんな誰がいつ確認してもいいような、くだらない業務連絡だった。
「あぁ……悪い」
日向は短くため息をつき、少しだけ苛立ちを抑え込むように眉間を揉んだ。
「……来週まで待って。考えるから」
彼のそのひどく疲労感が滲んだ声と、拒絶にも似た響きに。私は「うん、わかった」と頷く以外、何も言えなかった。
「……まだ、何か?」
立ち尽くす私に、日向が怪訝そうに目を向ける。
ふと視線を落とすと、彼が機材ケースの上に置いたままのノートPCのベゼルには、びっしりと不格好な付箋が貼られていた。
『task』
『4/12 薬理 小テスト <RAAS系がヤマ>』
『4/20公衆衛生 レポート締切』
『4/14基礎医学PBL 司会準備』
『4/15保健学科合同ゼミ 発表(スライド要作成)』
(……RAAS系って、何。……pbl?)
羅列されたその文字列は、私にはまったく理解できない、別世界の言語だった。
彼が普段、私の知らないところでどれだけの重圧と戦い、どれほど理不尽なシステムの中で生きているのか。その異常なまでのタスク量が、彼から睡眠時間と余裕を削り取っているのだという事実が、暴力的なまでの説得力を持って目に飛び込んでくる。
彼が「負担が大きすぎる」「耐えられない」と吐き出した、限界を告げる言葉。
それは決して大げさなものなんかじゃなく、彼を今まさに押し潰そうとしている現実だったのだ。
「ううん。……なんでも、ない」
私はPCから目を逸らし、努めて平坦な声を作って首を振った。
「そう」
日向はそれ以上踏み込んでくることはなく、再びPCを閉じて片付けに戻っていった。
その無防備で、あまりにも脆い背中を見つめながら。私は静かに、自分自身に言い聞かせるように唇を噛み締めた。
(……私一人で、なんとかしなきゃ、いけないんだ)
彼に頼ることはできない。
彼が私を信じて託してくれた最後の曲。その言葉の輪郭を掴むための苦しみと。
私は一人で、向き合わなきゃいけない。
やがて片付けの終わったスタジオの淡い照明は、黒いギターケースだけを静かに照らしていた。

