音に溺れる




「はぁ」と、今日一番の深く、重いため息がスタジオに落ちた。

「……ごめん。さすがに無知すぎた?」

恐る恐る尋ねると、日向は何も言わず、たった今片付けようとしていたキーボードの電源を再び入れた。アンプから微かにブツッというノイズが鳴る。

「こっち来て」

顎で促され、私は彼の隣に立った。
普段の立ち位置は、私がステージのセンターで、彼は少し斜め後ろ。こんな風に真横に並んで彼の鍵盤を見下ろすのは、なんだか少し新鮮だった。

「お前は感覚派だから、言葉で説明するより聞いた方が早い」

日向はそう言うと、右手だけでシンプルなメロディを弾き始めた。誰でも知っているような、童謡のワンフレーズ。

「これが一つの旋律。で、次がこれ」

今度は左手で、まったく違う、少しゆったりとしたメロディを弾く。

「対位法っていうのは、乱暴に言えば『それぞれ独立したメロディを、同時に重ねて美しく響かせる』技法のことだ。ただの伴奏じゃなくて、複数の線で音楽を立体的にする。……こうやって」

日向の長く綺麗な指が、左右の鍵盤の上で滑らかに踊る。

先ほどまでバラバラだった二つの旋律が、同時に鳴らされた瞬間、スタジオの空気がふわりと変わった。

別々の道を歩いていたはずの音が、お互いを邪魔することなく絡み合い、一つの豊かで美しい音楽として波打つ。

冷たい論理の塊だったはずの知識が、日向の指先を通ることで、確かな「熱」を持った音色に変わっていく。

「……すごい。全然違う線なのに、重なるとこんなに綺麗なんだ」

思わず感嘆の声を漏らすと、日向は鍵盤から手を離し、ふとこちらを見上げた。

至近距離で視線がぶつかる。少しだけ伏せられた長い睫毛と、理知的な黒い瞳。

「シキの声は、単体で十分に強い。だから俺はいつも、お前の声っていう一番強い『主旋律』に、俺の作った音をどう対等に絡ませるかを考えて曲を書いてる」

淡々と語る日向の言葉に、心臓がトクン、と大きく跳ねた。

ただのボーカルと作曲者の、音楽理論の話だ。
それなのに、彼が言う「お前の声に、俺の音を絡ませる」という言葉が、どうしようもなく甘く、特別な繋がりのように聞こえてしまった。

「……っ、そ、そっか。なんか、弾いてもらうと一瞬で分かったかも。理論も捨てたもんじゃないね!」

変な動悸を誤魔化すようにわざと明るく笑うと、日向は「なんだそれ」と呆れたように鼻で笑った。

「また分からなかったら聞け。頓珍漢な解釈で歌われるよりマシだ」

言いながら再びキーボードの電源を落とす日向の横顔から、私はしばらく目を逸らすことができなかった。

自分が今、彼に対してどんな顔をしているのか、自分でもよく分からなかった。