音に溺れる



ライブハウスでの打ち上げの喧騒から抜け出した、深夜の店の裏手。
火照った身体を冷ますような夜風の中で、自動販売機の横に並んで立ったまま、私はぽつりと口を開いた。

「……自分が自分でいられなくなるくらい、激しい恋をしてみるといい、って言われたんだ」

缶のミルクティーを見つめたまま呟くと、隣でブラックコーヒーを飲んでいた日向が、微かに視線をこちらへ向けた。

「私の書く歌詞は、綺麗すぎるって。……歩美さんに」

「……」

「日向は、そういうの、したことある?」

私の問いかけに、日向はすぐには答えなかった。
ただ、遠くの街灯を見つめるその横顔には、どこかひどく疲れたような、酷薄な影が落ちていた。

「……私さ。好き同士、付き合うっていうんなら絶対に幸せなはずだよねって、思ってて」

私は彼の沈黙を縫うように、自分自身のからっぽな心の中を打ち明ける。

「付き合ってるのに苦しいとか、好き同士なのに別れるとか、そういうの、未だによく分からない」

……問いかけながら、日向に聞くには愚問だったかもしれない、と思い直す。

だって、日向と彼女の水瀬さんは誰がどう見てもお似合いで、完璧なカップルだった。
私は一度話したことがあるだけに過ぎないけれど、水瀬さんと話す日向は本当に幸せそうだったし、そこに『自分を見失うほどの苦しさ』が介在する余地なんて微塵もないように見えた。

そんな私の想像をよそに、日向は手の中の缶コーヒーを一度だけ軽く振り、夜の闇に溶けるような低く冷たい声で話し始める。

「……人間ってさ。基本的に欲張りなんだよ」

「欲張り?」

「あぁ。好きだって、感情を少しでもくれたなら、それ以上が欲しくなる。……一度だって自分を優先してくれたなら、全部一番にして欲しいって思うようになる」

それは、一般論を語るような口調でありながら。彼自身の奥底で煮えたぎっている、醜くて重たい『独占欲』そのものを言語化しているようだった。

そんな感情が日向の心の奥底に存在しているかもしれない事実が、私にとってはただ、想定外だった。

「……好意のベクトルとか、スカラーが100%同じで釣り合ってるなら。きっと俺も幸せだと思うよ。……でも、大体、どこかで破綻する」

ベクトル。スカラー。

いかにも理系の彼らしい、感情を数値や数式に置き換えようとする不器用な例え話。けれど、その奥にあるひりつくような痛切さは、どんな綺麗な言葉よりも生々しく私の胸を打った。

「……初めは同じに見えても、すれ違い始める」

お互いの描く未来。自由を求める彼女と、檻に閉じ込めたい彼。

決して交わることのない平行線を歩んでいるという絶望を、彼は静かに、けれど確実に自覚している。
その痛みが、夜の冷気と一緒に私の中へと流れ込んでくるようだった。

「……日向も?」

気づけば、私はそう尋ねていた。

あなたも今、その『すれ違い』の中で、自分が自分でいられなくなるほど苦しんでいるの? と。

私のその直球すぎる問いに。

日向は一瞬だけひどく無防備に目を瞬かせ、それから、いつもの『完璧な大人』の仮面を貼り付けるように、ふっと自嘲気味に笑った。

「さぁ。どうだろうな」